- 出演者
- 池上彰 加藤浩次 宮司愛海 村上佳菜子 森田哲矢(さらば青春の光) 高橋克実 加賀まりこ 池田美優 猪狩蒼弥(KEY TO LIT)
22位「高橋尚子」。シドニー五輪女子マラソンで、日本人初の金メダル。女性アスリート初の国民栄誉賞が贈られた。
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- シドニーオリンピック国民栄誉賞高橋尚子
21位は、ピンク・レディー。心に刻まれた100人、残るは後20人となった。
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- ピンク・レディー
19位、女子フィギュアスケート「浅田真央」。悲願の金メダルを目指したソチ五輪、ショートプログラムを終えまさかの16位。メダルは絶望的となっていた、しかし翌日見せた演技は後に“伝説のフリー”と呼ばれる集大成となった。8本の3回転ジャンプを全て成功させ、圧巻の自己ベスト。オリンピックでのラストダンスを飾った。当時、同じ舞台に立っていた村上は、浅田のショートからフリーまでの様子を間近で感じていたと話した。
18位、3億円事件の犯人「白バイ男」。延べ17万人以上の捜査員が行方を追ったが、事件発生から7年後時効を迎えた。この事件を題材とした作品も複数出ており、スタジオではそういった作品から事件を知ったとの声も上がっていた。時効が迫る前日の街の声を聞いた映像が流れた。
16位「山口百恵」。1980年10月6日のテレビ欄にあったのは、夜のヒットスタジオ「サヨナラ山口百恵」。「横須賀ストーリー」は、まだ10代だった山口が宇崎竜童に自ら作曲を依頼し生まれた曲だった。その2年後の大ヒット曲「プレイバックPart2」で魅せたのは、低く落ち着いた声と芯のある眼差し。自分の意志を持つ女性という新たなロールモデルとして絶大の支持を得た。女優としても多くの映画に主演し大ヒット、1980年には何度も相手役を務めた俳優・三浦友和と結婚。そして芸能界からの引退を発表し、日本中が騒然とした。映画館の支配人もその引退を惜しんだ。日本武道館で行われたファイナルコンサートには、全国から別れを惜しむファンたちが集結した。男女雇用機会均等法が施行される6年前、“女性は結婚し家庭に入るのが幸せ”と考える人も多かった。家庭に入る彼女の意志をファンたちは尊重した。このファイナルコンサートの翌日、フジテレビの歌番組に最後の出演を果たす。歌手仲間たちに囲まれ歌う最後の曲。その後、時代は移りカムバックを望む声が多くなっても、山口百恵は自分の意志を貫き通している。
15位、15歳でデビューしダブルミリオンを記録した「宇多田ヒカル」。
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- 宇多田ヒカル
14位、IPS細胞の作成に成功しノーベル賞を受賞した「山中伸弥」。
11位、第87~89代首相「小泉純一郎」。2005年郵政民営化を実現するため打って出たのが、解散総選挙。同じ自民党内でも反対する議員は抵抗勢力とし、党の公認を外した。その対抗馬として小泉が送り込んだ刺客には、片山さつき氏・高市早苗氏の姿もあった。そして迎えた選挙戦最終日。
2002年10月15日、曽我ひとみさんら5人の拉致被害者が帰国した。横田めぐみさんの姿がないなか、父の滋氏は5人とその家族たちを写真におさめていた。1979年5月、フジテレビは家出した子どもを探す企画を放送し、横田夫妻が出演していた。のちにめぐみさんは北朝鮮によって拉致されていたことが判明し、北朝鮮側から死亡したと伝えられた。その後、遺骨は偽物だとわかったなか、滋氏は87歳で死去。早紀江さんはめぐみさんが日本の地を踏むまで、生き続けると語った。24年、岸田政権はモンゴルで北朝鮮の関係者と極秘接触したと韓国メディアによって報じられた。また、高市早苗首相は北朝鮮側に首脳会談をしたいと伝えたという。
10位は美空ひばり。9歳でデビューし、女性で初めて国民栄誉賞に輝いた。病魔で歩くことが困難になったが、退院から半年後にステージで歌声を披露。翌年、52歳で死去した。
9位は藤井聡太。14歳2か月でプロ入りし、29連勝を成し遂げた。
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- 藤井聡太
7位、100歳の双子「きんさん・ぎんさん」。代表的なダスキンのCMで2人は時の人になった。昭和元年にはすでに34歳、激動の時代を生き抜いてきた2人。常に笑顔、見る人全てを幸せにしてくれた。
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- ダスキン全日本シーエム放送連盟
昭和100年を生き抜いた、現在100歳以上の高齢者は何人いるのか。正解は約10万人。1963年は153人だったが、急激に増えたとのこと。割合としては圧倒的に女性が多く、約10万人の内8万人以上が女性だという。
6位「坂本九」。日本人初の全米ビルボードで1位。しかし、1985年8月日航ジャンボ機123便が群馬県上野村の御巣鷹山の尾根に墜落。乗客乗員520人が死亡した日本の航空史上最悪の事故で、坂本さんも犠牲者の1人となった。事故の翌日フジテレビが伝えたのは、4人の生存者の救出劇だった。
57年前には、人の死を巡る議論が巻き起こった。きっかけは日本初の心臓移植手術。執刀したのは、札幌医大の心臓外科医・和田寿郎医師。心臓移植はこの前年に世界で初めて行われたばかりで、これが30例目だった。心臓弁膜症の男子高校生に脳死と判定された大学生の心臓を移植し、手術は成功した。メディアは和田医師の快挙を大々的に報じた。しかし、手術から82日後、移植を受けた男子高校生が死亡した。和田医師と面識があった日本移植学会・小柳名誉会長は当時を振り返り、失敗したら手のひらを返すように批判のつぶてが札幌医大に殺到したと話した。その後、心臓を提供した側の大学生が本当に脳死だったのか、という疑念まで噴出し和田医師は殺人などの容疑で刑事告発された。結果不起訴になったが、脳死を巡る議論が加熱した。一方で、脳死後の臓器移植はタブー視され、日本で再び心臓移植が行われたのは31年後だった。
