- 出演者
- 首藤奈知子 太田光(爆笑問題)
1988年に公開された「火垂るの墓」。兄弟2人だけで懸命に生きる姿を描いた物語。4日、東京・江戸川区など各地で再上映が行われている。公開から37年になる火垂るの墓。テレビ放映や動画配信などで今再び注目を集めている。映画の脚本・監督は高畑勲。先月から東京・港区で「高畑勲展 -日本のアニメーションを作った男。」が開かれている。中でもひと際存在感を放っているのが火垂るの墓の展示。フランスのアニメーション史研究科のイラン・グエンさんは、非常に広く深く受容されてたいへん大きな栄養をお呼びしていますと説明。20年以上にわたり親交を深めたイランさん。
高畑さんは火垂るの墓にどんな思いを込めたのか。死後、自宅から映画の創作に使われた資料が見つかった。火垂るの墓の脚本を書くために高畑さんが記していた7冊のノートには、試行錯誤をした後が残されていた。中でも緻密に描写されていたのが空襲の場面。高畑さんが徹底的に拘った空襲のディテール。スタジオジブリの鈴木敏夫さんは、その根底には自身の経験があったと語る。1935年に生まれた高畑勲さんは9歳で空襲を経験していた。1945年6月29日、1700人以上が亡くなった岡山空襲。高畑勲さんの姉の菅原五十鈴さん(91)は「ただ逃げなきゃという気持ちで勲の手だけを握って走って逃げた」などと振り返って話していた。五十鈴さんは当時の記憶を後に絵に描いた。生死をさまよった空襲の経験を高畑さんは映画に込めた。戦後40年、高畑さんは火垂るの墓を作ることを決意する。
太田光は高畑勲さんと対談をしたことがあるといい、気が付いたときにはアルプスの少女ハイジ、赤毛のアンが僕らの世代でいうと日本のアニメーションの原点で、気が付いたときには知っていたという。火垂るの墓は、作家・野坂昭如の戦争体験を基にした小説が原作。太田光は、高畑さんのアニメーションは宮崎さんもそうだけど子どもの頃からみててリアリティというか一番すごいのは人間の体の動きであったり、焼夷弾でも恐怖が迫ってくるというのが他のアニメーションと比べてすごくリアル、などと話していた。映画が公開されたのが1988年で日本はバブル景気の真っ只中で、当時の映画のチラシを首藤奈知子が紹介。宮崎駿作品のとなりのトトロとの同時上映だった。太田はバブル景気の真っ只中というがもうみんなやばいなという意識があった、言ってみれば狂乱、高畑さんが日本人はなんか忘れてんじゃないのというところの部分がもしかしたらあったのかも、というのが僕の想像だとコメントした。火垂るの墓の企画原案の一文「いまこそ、この物語を映像化したい」と書かれていて、太田光はたぶん高畑さん自身の危機感は上がっていったのかな、などと想像していた。
高畑勲監督作品「火垂るの墓」は戦争の悲惨さを伝える映画として広く知られている。戦後70年の2015年6月29日、岡山市で講演した高畑勲監督は反戦映画ではないと話していた。鈴木敏夫らは高畑は反戦映画としてではなく、戦時の兄妹愛を描いたのだなどと伝えた。高畠監督は劇中でドロップ缶にこだわりがあり、原作で一度しか登場していないドロップ缶を何度も劇中に登場させていた。高畠監督の姉である菅原はドロップ缶が自分たちの戦時下の記憶と繋がっており、劇中でのシーンは自分たちの実体験が元になっているなどと明かした。2025年、8月15日、戦後80年の夏、今尚変わらず映画が語りかけるものがある。高畑は原作にはない主人公の幽霊を登場させており、その意図を生前に死んだ人々は死んだあとも生きて生きている人々を見つめているじゃないかと話している。
高畑勲監督が、意味深なシーンを作ったことに対し。太田は、その時に亡くなった人たちを描いてその人たちから我々は見られているのだと、高畑監督も含め意識していると話した。見る人によって様々な受け取り方のある作品、テレビで放送した後にも様々な意見が視聴者から出ていたとのこと。高畑監督がこの作品を「反戦映画ではない」と言ったことについて、太田は「反戦」という言葉では収まらない物語があり、その言葉だけでまとめてはいけないという想いがあったのだとうと話した。
いま見つめ直す「火垂るの墓」。見た人たちからは、「清太と同じ年齢・状況だったらどうふるまうのか考える映画だった」、「子どもが子どもらしく自然でいられることの大切さ、人がみんな幸せに生きるために大事なことが詰まっている気がした」、「”清太と節子の生きた道をどう思うか”と観客に訴えるような映画だと感じた」などの感想が上がっていた。
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