- 出演者
- -
13年前の東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県の酒造や三陸鉄道、福島県の医師などは、支えられた経験をもとに今度は自分達が被災者を支える側に回っている。
オープニング映像。
宮城県川崎町の「新澤醸造店」では、能登半島地震で被災した石川県の酒蔵からもろみを預かり、そのもろみを搾って酒にして瓶に詰める作業が行われた。石川県内でも珠洲市で被災した櫻田酒造の酒造りを白山市の車多酒造が手助けするなど、支援の輪が広がっていた。新澤醸造店は13年前の東日本大震災で被災した際に全国各地の酒蔵から支援を受け、新澤巖夫さんは「いつかは別の誰かを助けられるような蔵になっていきたい」などと思ったという。新澤醸造店は回収したもろみを搾って瓶詰めした酒約350本と生活用水1tを能登に届けた。新澤さんは「震災時にたくさんの蔵からアドバイスをいただいて、能登にお返しできるようにしたいと思っていた。これから始まるという感じで再スタートのきっかけになれば」などと話した。新澤醸造店が支援した数馬酒造は、今月下旬に酒造りの再開を目指しているとのこと。
三陸鉄道は東日本大震災で大きな被害を受けたが、復興し来月には開業40周年をむかえる。宮古駅の下村道博駅長は地域の方、全国の方からの支援で頑張ってきて40周年をむかけることができて感慨深いという。三陸鉄道の運行部長・米沢務さんは1期生のベテラン。三陸鉄道は1984年、赤字路線として国鉄から切り離され、全国初の第三セクター鉄道として誕生。1994年には強風による横転事故、2011年の東日本大震災では壊滅的な被害を受けた。津波で駅舎ごと跡形もなくなった場所もある。心が折れそうになったときもあるという米沢さん。地元からの強い要望に応え2014年4月に全線復活を遂げた。去年12月、新しいロゴマークが作られた。能登半島地震でのと鉄道全線で運転とりやめ。のと鉄道は約50ヵ所の被害があった。従業員たちは車両に寝泊まりして復旧活動をした。中田哲也社長は強い思いを持と続けた。地震から4日後、中田社長のもとに三陸鉄道の石川社長から心を寄せるメールが届いた。熊本3社が募金活動を始めた。さらに、全国のローカル鉄道で構成される協議会はのと鉄道応援のtがめの鉄印を企画した。8日までに32社が賛同している。三陸鉄道の震災学習列車は被災した当時と復興した今を観光しながら学ぶ取り組み。のと鉄道は来月6日から全区間で運行を再開する。
能登半島地震では現在も1万人以上が避難生活を余儀なくされている。輪島朝市通りではがれきが手つかずに残っている。海洋研究開発機構の学術研究船・白鳳丸に東京大学の研究者など35人が乗り込み、能登半島沖の断層を調査している。白鳳丸では音波による探査、採泥・採水、水中ドローンで地形の変化を調査する。能登半島地震は内陸型で半島側が隆起した逆断層の地震と考えられている。東日本大震災は海洋プレートと大陸プレートの溝界でおきた海溝型地震。東日本大震災の震源域には断層崖があり、高さ約26mほど。地震によってできた隆起としては破格の大きさだという。輪島市の海域で撮影された水中ドローンの映像には深さ約85mの海域に約1mの崖があり、地震で動いた断層のずれによりできたとみられる。能登半島沖北東の海域では反射法地震探査が行わて、海底の地下断面図を確認した。12ヵ所の海底地下断面図ができあがり、その中に東日本大震災のときと同じような断層崖があった。さらに、能登半島沖に長さ約40キ、1~2mの断層帯があるという。
DMATの活動拠点本部には朝早くから全国各地の部隊が詰めかけた。福島から来た部隊の姿もあった。医師の谷川攻一さんが部隊を率いた。この時、災害関連死が懸念される状況だった。衛生用品を積み込み避難所へ向かった。雪道を抜け30人ほどが集まる集会所にたどり着いた。谷川さんは東日本大震災の直後、被ばく医療チームの一員として南相馬市の保健所へ入った。バスには高齢者や介護福祉施設の入所者が乗っていた。長時間の移動の最中、医療が提供されず犠牲者もいた。
間もなく東日本大震災発災時間の午後2時46分となり、各地で追悼の式典が行われている。
宮城県の南三陸町では43人の方が犠牲になった旧防災対策調査の管理を街が県から引き継ぎ震災遺構として保存する事が決まったという。
黙祷を終えたあと岩手県の釜石市にある根浜海岸の様子を見ると色とりどりの風船が舞い上がり集まった方々が鎮魂のメッセージを書いたという。東日本大震災で被災した方達は今回、支援する側に回っている姿も見られるている。森川夕貴は「全国各地から温かい支援が届いているが東日本大震災の被災者の支えもある」などと話している。