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オープニング映像。
山口県は西の京と言われる理由に迫る。案内してくれるのは山口市教育委員会の北島さん。まず訪れたのは国宝の瑠璃光寺五重塔で、京都の醍醐寺、奈良の法隆寺と並んで日本三名塔に数えられる。心柱の構造は東京スカイツリーにも活用されている。この塔は大内家第25代当主の大石義弘のお墓とされる。大内氏義弘は足利義満の信頼を得て、和泉、紀伊にまで領地を広げる。親子は度々上洛し京都の文化に感銘を受け、山口に京風の街づくりをしたとされる。
大内氏が山口盆地を拠点にした理由。大市町と中市町の堺からは魚介類の殻や骨がたくさん出土しているが、山口古図をみるとお魚市場があった。石州街道、椹野川などにも通じるため、大内氏は山口が西日本各地を結ぶ一大物流拠点になるとと見定め、西の京を築いた。山口は京都と同じく扇状地で、一の坂川沿いに平地が広がり街づくりに適していた。京都の鴨川になぞらえ、碁盤の目に整備し、自身の館も置いた。
大内弘世と義弘が西の京の基盤を築いたが、西国最強の大名と歌われた30代・義興が最盛期をもたらした。義興は朝廷から武家として最高峰の従三位を授けられるほどだった。やってきたのは湯田温泉のホテルで、室町幕府前将軍 足利義稙をもてなす宴を再現。この時、義稙は京を追われた身だったが、義興は支援することで大義名分で京都に行き、室町幕府の中心的なところに入り込むことが可能になった。義興は1508年に上洛し、義稙を将軍に返り咲かせた。義興は幕府の実権を握り、従三位を授けられた、幕府が持っていた中国との貿易の権利を譲り受けた。
山口北西部の中尾地区には巨大な石垣がある。2009年に調査が始まったばかりの大内氏の遺構。遺跡の正体として有力なのが、大内氏が建てた禅寺。禅宗のお坊さんは外交官のような役割を持っていて、外交の窓口になっていた可能性がある。実際に中国由来の陶磁器も出土している。
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栄華を誇った大内氏だったが1551年、31代大内義隆は家臣の裏切りにあい、追い詰められ自害。大内氏は事実上の滅亡を迎える。その後、山口は毛利氏の支配下に置かれ、五重塔は萩に移されることになった。しかし住民が結束し、山口に残すよう懇願し、塔は創建の地にとどまった。大内人形は弘世が京から迎えた妻が懐かしむのをみて作らせたとされる。
エンディング映像。