山田さんはたまたま入った幼稚園が音感教育に力を入れていて、それが下地にある。音楽一家ではなく、指揮に目覚めたのは公立高校の吹奏楽部で指揮者をしたこと。しかし、部員がいなくなるという挫折を味わった。独善的になってしまったことが原因だと思うと山田さんは振り返る。当時の友人、ホルン担当だった雨海秀和さんは番組の取材に答えた。部活動にストイックに真面目に向き合って、向き合うがあまり1人で空回りしているところは当時あったと話す。当時から指揮者としてどういう演奏にしたいか明確に伝えていたそう。また、演奏会の前に贈られた手紙が忘れられないという。雨海さんは山田さんの演奏会にはほぼ足を運び、ベルリンも見に行った。山田さんの魅力について、巻きこむ力もある、巻き込まれたたくなる人柄と語る。山田さんは当時、全員部員が戻ったら指揮者を目指そうと考えていて、無事全員で演奏会を迎えられて指揮者を目指した。指揮者としてやってはいけないことをほぼすべてやって学んだという。指揮者を目指そうと志したとき、相談しても背中を押して貰えることはなく、両親含め賛成も強い反対もなかった。
