1924年5月2日、最愛の妻の写真とともにベースキャンプを出発。パートナーとして同行したのは酸素ボンベの専門家、サンディー・アーヴィン。マロリーたちはルートの途中に休憩できるキャンプを6か所作り、少し登ったらキャンプに戻り、次はもう少し高いところまで登ってまた戻る。こうして体を高地に慣れさせながら進んいった。今回、マロリーを調べているアンカーたちは当時の装備でエベレストに挑戦することにした。出発から9日目、約6400m地点でアーヴィンが高山病にかかった。急遽、ベースキャンプ戻った。すると残っていたスタッフが2人、死んでいた。そんな中、マロリーは娘に「これからお茶の時間だ、少しだけどケーキもある。8月には帰るからね」と娘を心配させないための手紙を書いていた。まもなくモンスーンが発生し始める6月。マロリーたちは急いで山頂を目指した。標高8000m付近に到達したが、雪の反射で目が見えなくなるもの、喉が凍傷になり窒息死寸前になるものなどメンバーが次々と下山していった。1924年、6月8日早朝、マロリーとアーヴィンが最後のキャンプを出発した。午後0時50分。頂上までわずか250m付近を歩くマロリーとアーヴィンの姿を後方のスタッフが目撃している。2人は最後の難関、セカンドステップと呼ばれる高さ約30mの絶壁に向かっていた。