ベトナム戦争の終わりを早めた一つのキッカケともいわれている1つの写真は、ナパーム弾により衣服がすべて焼け落ちてしまった少女、9歳のファン・ティ・キム・フック。ジャーナリストのウェインたちは少女を助けるべく水を飲ませたり体を水で冷やしたりしてあげたが、少女はこの直後に意識を失ってしまった。カメラマンのウトが少女を車に乗せて急いで一番近くの病院に向かった。病院に着いたウトは大声で助けを求めたが、看護師は「今はいっぱいだから他の病院いにってくれ」といわれた。そこでウトは「もしこの子が死んだらアンタの顔写真を明日の朝刊に載せる」と脅し、なんとか入院できた。ジャーナリストのウェインも様子を見に行ってみるが、少女は包帯でぐるぐる巻きにされベッドに寝かされているだけだった。そこでやけどの専門医がいる病院に少女を転院させようと役所に申請しに行ったが「なんであの子だけ特別扱いするんだ」と言った。そこでウェインは「あの子のやけどはあなた方ベトナム軍によって負わされた。ベトナムの印象を良くするためにも許可してくれ」と頼んだ。しかしそれでも結果はNOだったため隠していたナイフを取り出し「このナイフでいますぐあの子を楽にしてやってくれ。その方が彼女にとって苦しむよりはマシだから」と説得。その後、専門病院に転院できたキム・フックは14か月に及ぶ集中治療と苦しいリハビリに耐え抜いた彼女はどうにか生き抜くことができた。そして彼女はナパーム弾が落ちたあの日のことを今でも鮮明に覚えているという。数年後、フォトジャーナリストが彼女を取材したときの貴重な写真が残っている。心にも体にも大きな傷を負ったキム・フック。1972年当時、キム・フックの写真は”ナパーム弾の少女”として世界中に配信され、「危険な兵器が民間人にも多く使われている」ということがわかった。すると世界中で反戦ムードが一気に高まっていった。そしてついに1973年1月、アメリカと北ベトナムの間で和平協定が結ばれ、これによりアメリカ軍はベトナムから撤退、1975年にベトナム戦争は集結した。その後、キム・フックは大学受験を機にキューバに留学。そして数年後、その地で17年前に彼女の命を救ってくれたカメラマンのウトに再会した。