エマニュエル・ユセルさんがビュットオカイユの歴史を紹介した。中世の中ば、パリの主工業をすべて街の外に移すことが決まり、当時は郊外の農村だったこの地域に、多くの工房が立ち並んだ。理由は街を流れるビエーブル川だった。川の水を大量に必要とする皮なめしや染色、肉屋、洗濯屋の工房が並び多くの労働者がこの町に暮らした。糸の染色が盛んな町で生まれたのがオブラン織だった。当時、職人たちの賃金は安く、子供まで肉体労働に就かなくてはならないほどだった。1871年、労働者の不満が爆発しパリ・コミューンを立ち上げ政府軍を相手に激しい戦いを繰り広げた。労働者による政権は短命に終わったが、この精神は今のフランスにもしっかり生きているという。