金沢市立玉川図書館の保管資料から、戦国時代の出来事を聞き取った「乙夜之書物」が見つかった。明智光秀の重臣の息子、斎藤利宗は参加した本能寺の変について証言している。光秀は本能寺にはおらず、鳥羽で指揮をとっていたという。その頃、大阪には信長の三男である織田信孝がいて、1万5000の軍勢を従えていた。信長が本能寺から脱出し、信孝と合流するのを妨げるべく、光秀は鳥羽で待ち構えていたのかもしれない。本能寺の南、東側は市街地に面し、明智勢は2000人のうち200人ほどしか配置できなかったという。元海上自衛隊の川上智氏は信長勢が100人程度だったとしても、信長を中心に据えて密集隊形を組み、一部を陽動役に割けば、本能寺から脱出できた可能性があると話す。
萩原大輔氏は「光秀は想像以上に計画的にクーデターを考えていたと思う」と語った。
萩原大輔氏は「光秀は想像以上に計画的にクーデターを考えていたと思う」と語った。
住所: 京都府京都市東山区今熊野北日吉町35
URL: http://www.kyoto-wu.ac.jp/
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