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「仙台市(宮城)」 のテレビ露出情報

8年前にロングスローを見せた青森山田高校の郷家友太。現在25歳の郷家はベガルタ仙台でプレー。郷家を小学5年生の時に襲ったのが2011年の東日本大震災。郷家が住んでいた地域も震災の大きな被害を受けた。見慣れた街並みから一変した日常。そんな中、郷家の人生を変えたある試合が。震災から1か月後、亀梨も宮城を訪れた。南三陸町の被害の大きさを物語る防災対策庁舎。現在は復興祈念公園の中でシンボルとして残されている。郷家が生まれ育った宮城県多賀城市も震災直後は津波で流された車や瓦礫が散乱していたが、少しずつ日常を取り戻していった。その多賀城市で郷家は小学生の頃からベガルタ仙台のジュニアチームでプレー。あの日の記憶は今も鮮明に残っている。郷家が憧れたベガルタのスタジアムは激しく崩れ、茨城の鹿島も芝生にゆがみが発生する被害。東京・味の素スタジアムは避難所として開放された。震災直後、プロ野球をはじめ、スポーツイベントは中止に。そんな中、あるニュースが届けられた。震災から僅か18日後、日本代表とJリーグ選抜のチャリティーマッチが開催された。日本を代表する選手たちが復興のために立ち上がった。被災地、岩手出身の小笠原満男はチャリティーマッチに向けた会見中、テレビのない避難所が多い現状を訴えた。地元テレビ局の協力で避難所にはテレビが設置された。被災地周辺は節電が必要なため、会場は電力不足や交通機関の影響がない大阪の長居スタジアム(現:ヤンマースタジアム長居)。郷家も家族全員で観戦。郷家は「どこのチャンネルも震災のことばかりだった。震災のことを少しでも忘れられた。こんなにも人を笑顔にできるスポーツなんだなと改めて感じていた」と振り返る。Jリーグの各チームが全国で支援活動。復興に向けサッカー界が一丸となった。そして震災から1か月半、Jリーグが再開。郷家には忘れられない試合があった。本拠地が被災したベガルタ仙台。神奈川での川崎フロンターレとの試合。神奈川にも関わらず、多くのベガルタサポーターが会場に。横断幕には「全ての仲間にありがとう。故郷を取り戻すまで俺達は負けない!」と強い決意が。地元・宮城でもテレビの前で勝利を願うサポーター。選手とサポーター、宮城が心を一つにして迎えた試合。前半37分、川崎が先制ゴール。それでもベガルタは後半28分、太田吉彰が足をつりながらも執念の同点ゴール。このゴールを郷家も目に焼き付けた。さらに後半42分、鎌田次郎が土壇場で逆転ゴール。ベガルタ仙台が震災後の初試合で勝利した。震災から3か月後、郷家がいたのは宮城県大会決勝のピッチ。サッカーができる喜びを取り戻した郷家はキャプテンとして全国大会出場に導いた。あれから14年、郷家はベガルタ仙台のキャプテンに。郷家のゴールで7年ぶりの開幕戦勝利。14年前、サッカーで勇気をもらった少年は、地元・宮城に勇気を与えるサッカー選手に。「(震災)当時の選手もそうですし、宮城県民も諦めた人は全然いない。忘れてしまうかもしれないけど、(震災のことを)話すというのが一番伝わると思うので、サッカーをやりながら伝えていきたい」と話した。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年7月6日放送 5:55 - 6:15 日本テレビ
日テレアップDate!日テレアップDate!
24時間テレビでは様々な支援事業を行っている。足に障害がある子供たちでも自分で動かす事のできる車椅子のCOGY。販売元の会社の代表の鈴木さんは一般的な車椅子とは違 って自分で障害のある足を使ってペダルを踏んで動かすことができるのがコギー。一般的な車椅子と比べ座面と背もたれに角度がついているために自然と背中がおされて脚が前に出る姿勢になる。仙台大学の関矢貴秋氏[…続きを読む]

2025年7月6日放送 2:45 - 3:45 フジテレビ
FNSドキュメンタリー大賞令和の開国〜外国人材が握る地方の未来
宮城・石巻市で漁師として働くインドネシア人のカシワンさん。日本で漁師となって8年目。船頭の森さんは、漁師を目指す日本人の若者が減る中で2011年からインドネシア人の受け入れを始めた。宮城県内の生産年齢人口は毎年1.5万人のペースで減少していて、漁業従事者もこの20年で半減。その7割が50代以上。
宮城・石巻専修大学。卒業生のうち4割は首都圏に就職し、地元に[…続きを読む]

2025年7月5日放送 22:00 - 22:30 テレビ東京
新美の巨人たち(オープニング)
今回は伊東豊雄のせんだいメディアテークを知花くららと巡る。

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