東日本大震災から明日で13年。宮城・岩沼市に住む森さん夫婦は、震災後13年間毎月欠かさず自宅のあった場所に訪れている。地震後一緒に避難した息子の喜勝さん。荷物を取りに戻った自宅で津波に流され、帰らぬ人となった。夫婦に残された亡き息子との唯一の接点が、戻りたくても戻ることのできないかつての我が家。番組では13年前に家族や故郷を奪われ、新たな街で生きる決断をした人々の今を取材した。岩沼市は東日本大震災で最大規模の津波被害を受け、面積の半分が浸水。市は沿岸部を災害危険区域に指定し、新たに住宅を建てることを禁止した。
岩沼市玉浦西に住む菊地さんは、震災後の集団移転でこの街に移り住んだ。東日本大震災では集団移転が324の地区で計画されたが、住民が入らず空き地が生まれるなどの問題も。そんな中、岩沼市は集団移転の成功例として多くの自治体からの視察が絶えない。高く評価された理由は「元の集落ごとの移転」。市は6つの集落を内陸部に移転することを決断したが、その際新たな街に元の集落ごと移転するという方針を取った。菊地さんがこの日訪れたのは同じ町内に住む小林さん夫婦。同じ二野倉地区から移転した3人は、今でもこうして頻繁に顔を合わせている。集団移転をした他の自治体では高齢者らを優先するなどして移転を行った結果、住民がバラバラとなり孤独死などが問題になった。
故郷を失った悲しみも、共に移転した同郷の人たちと思いを重ねることで乗り越えてきた小林さん。岩沼市の集団移転でもう1つポイントとなったのが「住民発のまちづくり」。多くの自治体では行政が街の構想を作ることが多かった一方で、岩沼市では住民に白紙の状態から委ねた。100回を超える話し合いの末に出来上がったのがこの街である。大型ショッピングセンターなども出来、生活の利便性も大きく向上した。中でも住民たちの思いが込められているのがイグネ。集団移転時、住民は負担を覚悟で自分たちでイグネを植え育てることを決めたという。協力して管理することで、コミュニティーの維持にも繋がっているとのこと。
災害の備えも街の至るところにある。ベンチを外すとかまどになり、そのへんの薪を拾ってご飯を炊くことができる。また地面には災害用トイレも。震災で息子を亡くした森さん夫婦は、故郷への思いを抱きつつも新たなふるさとにも愛着が湧いてきたという。一方災害危険区域に指定される前に家を修理し、集団移転をせず今も住み続ける人もいる。移転先のまちづくり会長を務める森さんは、時折故郷を訪れ残った住民らとも交流を続けている。森さんは集団移転をした人・しなかった人どちらの思いも理解できるからこそ、正解はないと話す。
岩沼市玉浦西に住む菊地さんは、震災後の集団移転でこの街に移り住んだ。東日本大震災では集団移転が324の地区で計画されたが、住民が入らず空き地が生まれるなどの問題も。そんな中、岩沼市は集団移転の成功例として多くの自治体からの視察が絶えない。高く評価された理由は「元の集落ごとの移転」。市は6つの集落を内陸部に移転することを決断したが、その際新たな街に元の集落ごと移転するという方針を取った。菊地さんがこの日訪れたのは同じ町内に住む小林さん夫婦。同じ二野倉地区から移転した3人は、今でもこうして頻繁に顔を合わせている。集団移転をした他の自治体では高齢者らを優先するなどして移転を行った結果、住民がバラバラとなり孤独死などが問題になった。
故郷を失った悲しみも、共に移転した同郷の人たちと思いを重ねることで乗り越えてきた小林さん。岩沼市の集団移転でもう1つポイントとなったのが「住民発のまちづくり」。多くの自治体では行政が街の構想を作ることが多かった一方で、岩沼市では住民に白紙の状態から委ねた。100回を超える話し合いの末に出来上がったのがこの街である。大型ショッピングセンターなども出来、生活の利便性も大きく向上した。中でも住民たちの思いが込められているのがイグネ。集団移転時、住民は負担を覚悟で自分たちでイグネを植え育てることを決めたという。協力して管理することで、コミュニティーの維持にも繋がっているとのこと。
災害の備えも街の至るところにある。ベンチを外すとかまどになり、そのへんの薪を拾ってご飯を炊くことができる。また地面には災害用トイレも。震災で息子を亡くした森さん夫婦は、故郷への思いを抱きつつも新たなふるさとにも愛着が湧いてきたという。一方災害危険区域に指定される前に家を修理し、集団移転をせず今も住み続ける人もいる。移転先のまちづくり会長を務める森さんは、時折故郷を訪れ残った住民らとも交流を続けている。森さんは集団移転をした人・しなかった人どちらの思いも理解できるからこそ、正解はないと話す。