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「沖縄県公文書館」 のテレビ露出情報

沖縄・宜野湾市にある佐喜眞美術館には「沖縄戦の図 久米島の虐殺(丸木位里、丸木俊・作)」という絵が展示されている。80年前、日本軍の兵士が久米島の島民をスパイとみなし、女性子ども問わず虐殺した。いま久米島では彫刻家の金城実さんが後世に伝えるためレリーフに向き合っていた。地元の子供達が作っているのは亡くなった20人と同じ数の「野仏」。金城さんがかつて作った作品の中には殺されようとしている母親が、殺されてしまった息子を抱き上げようとしている姿を描いた「昭和20年8月20日」という作品もある。この日を迎えるまで、一体久米島に何が起こったのか。
当時、山の頂上にいた日本軍のことを久米島の人は「山の兵隊」と呼んでいた。島民の1人である上江洲教昭さんは、山の近くに住んでいて「山の兵隊に守ってもらえる」と自慢していた友人がうらやましかったという。しかし、新たな隊長である鹿山正兵曹長の着任によりその空気が一変した。22年前に取材に応じた島民の1人、本永昌健さんは彼が演説している姿を見たときの出来事を証言した。1945年6月13日、米軍の偵察隊が久米島に上陸。その過程で島民3人を拉致した。拉致された10代の少年が日本兵の人数や装備について証言した様子が記録が残っている。鹿山は、島民に対し拉致された3人を「スパイ」と認定し、帰ってきたら家族や一般住民に至るまで接触することを禁じ、軍に報告するよう通達を出した。鹿山の舞台にいた島民の1人、中原善助さんの手記の中で、拉致されて戻ってきた青年と鹿山とのやりとりが記録されていた。
1945年6月26日、米軍が久米島のイーフビーチから上陸した。翌日、米軍から依頼され降伏勧告場を届けた男性が鹿山隊によって銃殺された。29日、先に米軍に拉致されていた青年をはじめ、家族ら8人も惨殺された。22年前に取材に応じた新垣とみさんは、その現場の様子が今も忘れられないと証言した。9人は銃剣で突き殺され、収容していた家屋ごと燃やされたという。事件を書き残した仲原さんの手記には「残忍極まる行為である」と記されていた。かつて村長を務めていた吉川智改氏が記した「1945年乙酉年日記 久米島戦争記」には鹿山隊によって翻弄される久米島の人々の姿が記されていた。鹿山は山を降り家に帰るものは米軍に通じるものとして殺害すると住民を脅迫し、米軍は山を降りなければ日本軍とみなすと通告してきていた。
久米島の住民が避難する壕を周り、家に戻るよう説得する人が現れた。仲村渠明勇さんはアメリカ軍の艦砲射撃計画を知り、島の事情を知って攻撃をやめさせる代わりに案内役を務めていた。22年前の取材には。当時の島民の1人だった佐久田直広さんが仲村渠さんの呼びかける言葉を覚えていたと証言した。仲村渠さんの甥の上州智けんさんも早く家に戻るよう促したおじの声がまだ耳に残っていると話していた。こうした行動に対し、日本軍の視線は厳しく、仲原さんの手記には彼を早く殺さないといけないと隊の中で話されていたことが記されていた。新垣照子さんは仲村渠さんが助けを求めてきたときのことを証言した。8月18日、仲村渠さんは妻と子供とともに隠れ家で殺害された。甥の上州さんや仲村渠さんの妻の妹、佐久本ツル子さんも殺害された現場の話を聞いていた。さらに佐久本さんは島の人の中に、日本軍に居場所を密告するような人がいたと話していた。
昭和20年8月20日、朝鮮出身の谷川昇さん一家7人がスパイとみなされ殺された。上江洲由美子さんによると、谷川さんの長男が熱を出し、米軍から薬をもらったという情報が通報されたのではないかと証言した。本永さんは鹿山隊が谷川さんの家に向かう様子を証言した。上江洲由美子さんは、近所の住んでいた人から谷川さんが惨殺された時の様子を戦後になってきいたという。谷川さんの長男と友人だった上江州教昭さんは谷川さん一家殺害に島の人が関わったことについて「恥だと思っている。和夫が殺された恨みもあるし、絶対許せない」と語っていた。上江洲由美子さんの一家も殺害の大賞リストに上がっており、9月9日に実行される予定だったという。しかし、その2日前、鹿山隊は米軍の武装解除に応じ、久米島の戦争が終わった。
被害と加害が微妙に絡み合うため、長く久米島では虐殺を語ることが長く避けられてきた。しかし、沖縄が日本に復帰する直前の1972年4月2日号の「サンデー毎日」でこの虐殺事件が明るみに出た。そして鹿山と事件の遺族がテレビ番組の中で相まみえることになった。「泣き叫ぶ子ども葉真たちまで犠牲になったのか」「謝罪するかと思えばお前の言い方はなんだ。沖縄の自衛隊もお前みたいなことをせんかと思ってみんな反対しているんだ」などという遺族からの訴えに対し、鹿山は「軍人としてとった措置の責任は指揮官として全部負いたいが、私の軍人としての信念は変わらない」と述べた。
住所: 沖縄県南風原町字新川148-3
URL: http://www.archives.pref.okinawa.jp/

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年7月21日放送 5:25 - 8:14 フジテレビ
めざましテレビロペとアニマル
今週は沖縄WEEK。今年3月由布島で、スイギュウの赤ちゃん誕生。沖縄でよく見かけるスイギュウは、1932年ごろ台湾から農作業用としてやってきたが、現在は観光で大活躍。最大3t(観光用のスイギュウ車)を一頭で引くことができる。

2025年6月25日放送 3:45 - 4:30 TBS
TBS NEWS(ニュース)
20万人以上が犠牲となった沖縄戦。 日本兵に投降を促す映像が流れた。喜納明美さんは昌治さんの呼びかけを聞いたという人に話を聞きに行った。渡口彦信さんは1945年6月に米軍に追い詰められ海岸へ。渡口彦信さんは沖縄の言葉「ウチナーグチ」の呼びかけに応じ投降した。明美さんは父・昌治さんが呼びかけたとされる海岸へ。

2025年6月24日放送 15:50 - 19:00 日本テレビ
news every.いまを、戦前にさせない
戦後80年となる今年「いまを、戦前にさせない」をテーマとした特集を伝える。日本で初めて戦場に動員された中学生による部隊の足取りを辿った。80年前の沖縄戦、兵士不足の中、日本で初めて男子中学生の学徒隊を兵士として動員した「鉄血勤皇隊・通信隊」。沖縄県内の12の中学校から1500人以上が動員され半数以上が犠牲となった。旧制・沖縄県立第一中学校からは335人が動員[…続きを読む]

2025年6月23日放送 21:54 - 23:10 テレビ朝日
報道ステーション(ニュース)
地下深くに広がる自然の洞窟「ガマ」で、ボランティアとして戦没者の遺骨を探す夫婦がいる。浜田哲二さんと律子さんは今年2月、制帽につける校章を発見した。1936年に那覇市に創設された県内唯一の旧制私立中学校「開南中学校」のものだった。戦争で生徒たちが軍に動員され、その多くが犠牲となったことで戦後廃校になった。戦争の激化に伴い県内の学校では授業がなくなり、生徒たち[…続きを読む]

2025年6月22日放送 18:00 - 18:55 日本テレビ
真相報道バンキシャ!(ニュース)
NNN戦後80年プロジェクト「いまを、戦前にさせない」。あす6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦などで亡くなった24万人超の戦没者1人1人の名前を読み上げる取り組みが行われている。その活動に参加した沖縄県北中城村の13歳の双子の姉妹の思いを取材。1945年3月、太平洋戦争末期にアメリカ軍が沖縄に上陸。住民が巻き込まれる地上戦が繰り広げられた。平和祈念公園(沖縄・[…続きを読む]

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