「独占や私欲を嫌い世のため人のため道徳心をもって経済活動に励みましょう」という道徳経済合一説が渋沢のモットー。パリ滞在中に江戸幕府が滅び、報せを聞いた渋沢は帰国し蟄居状態だった慶喜がいる静岡に向かった。生涯慶喜の世話をしようと心に決めていたが、一方で静岡に商法会所という金融商社を設立。これが儲かり明治新政府の目に留まった。大隈重信がヘッドハンティングし、渋沢は政府の役人になった。新しい日本のルール作りに参加したが、近代化のためには民間の力が必要だと感じた渋沢は3年半で辞職。日本初の銀行を民間で設立した。