- 出演者
- 羽鳥慎一 櫻井翔 羽鳥慎一 吉村崇(平成ノブシコブシ)
オープニング映像。
本日の先生は渋沢史料館顧問の井上さん。櫻井、羽鳥、吉村は渋沢栄一の生家を案内してもらった。中では渋沢栄一のアンドロイドから半生を聞ける。7歳から論語に親しみ、14歳で家業の藍の葉の買い付けを手伝う。渋沢は品質を向上させるため番付表を作り、農家のモチベーションをアップさせた。当時は通称「榮一郎」と呼ばれていた。
黒船来航により起こった尊王攘夷運動に染まった渋沢は、親との縁を切り横浜の外国人を焼き討ちにしようとした。渋沢栄一記念館には焼き討ちにする宣言書の原本が展示されていた。未遂に終わったものの計画は幕府にバレて渋沢は追われる身となる。
「体制に残って自分たちの手で世の中を改める」という思いから、渋沢は一橋慶喜の家臣として使えた。渋沢は慶喜を尊敬し、後に彼の伝記を編纂している。
1867年に渋沢はパリ万博へ。当時はスエズ運河が工事中だった。フランスのレセップスという人の会社が請け負っているという話を聞いた。渋沢は資本を集め事業を起こし利益を分配する株式会社のシステムに驚いた。さらに最先端のインフラ設備を目撃し「日本は欧米にやられてしまう」と感じた渋沢は、帰国後第一国立銀行を立ち上げた。「Bank」を「銀行」としたのは渋沢だった。ガスや電気、鉄道、証券など日本初の事業を次々と起こした。幸田露伴は渋沢のことを「時代の児」と表している。
「独占や私欲を嫌い世のため人のため道徳心をもって経済活動に励みましょう」という道徳経済合一説が渋沢のモットー。パリ滞在中に江戸幕府が滅び、報せを聞いた渋沢は帰国し蟄居状態だった慶喜がいる静岡に向かった。生涯慶喜の世話をしようと心に決めていたが、一方で静岡に商法会所という金融商社を設立。これが儲かり明治新政府の目に留まった。大隈重信がヘッドハンティングし、渋沢は政府の役人になった。新しい日本のルール作りに参加したが、近代化のためには民間の力が必要だと感じた渋沢は3年半で辞職。日本初の銀行を民間で設立した。
一行は「麺屋忠兵衛」で渋沢の大好物の煮ぼうとうを味わった。渋沢直筆の掛け軸があった。また日本で初めてコーヒーを「美味しい」と書き記したのは渋沢と言われている。太陰暦を太陽暦に変え、両から円に変えたのも渋沢。国づくりをするうえでプロジェクトチームを何個も立ち上げていった。
渋沢栄一は帝国ホテルや帝国劇場を作り、牛乳やビールの工場も。ほかにもJTB、NHK、東宝の前身となる会社にも関わっていた。渋沢が一番最初に始めた製造業は紙。現在の王子ホールディングスである抄紙会社を作った。ヨーロッパに行った時、ナポレオン3世が演説した内容が翌日新聞で届けられたことに驚いたという。日本はまだ和紙の時代で、紙は文明文化を高めると西洋紙の製造業を始めた。渋沢は軍事産業はやっていないという。また渋沢は明眸皓歯(美女)に関することを除いては恥じることはないと述べており「無欲は怠慢なり」という言葉を残している。渋沢はパリをイメージして田園調布を作った。
北区にある飛鳥山へ。渋沢の終の棲家で、当時の書庫「青淵文庫」が現存している。ここで蒋介石とも会っていた。渋沢は諸外国の要人を招いて世界平和を訴えかけていた。
新千円札の裏側には葛飾北斎の凱風快晴が描かれる。一行は晩年の北斎が訪れていた小布施へ。北斎に詳しい浦上さんに北斎館を案内してもらう。北斎は冨嶽三十六景を70歳過ぎてから描いた。北斎は生涯で3万点の作品を残したと言われる。印象派の画家に影響を与え、西洋近代芸術を発展させたとまで言われている。アメリカのLIFE誌が1998年にアンケートを取った「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に、日本人で唯一北斎が入った。19歳で役者絵の勝川派に入り、35歳で独立。西洋の絵も取り入れ、何度も雅号を変えたことでも有名。
北斎は40代後半のとき読本の挿絵でブレイクする。効果線を描き、白黒だけで光や臨場感を再現した。北斎がよく挿絵を描いていた物語の作者は曲亭馬琴で、200冊ほどイラストを手掛け読本の世界を広げた。
冨嶽三十六景の前にスケッチ画集「北斎漫画」が海外で人気になった。浦上は自身の北斎漫画コレクションを見せてくれた。絵の描き方を学ぶ絵手本だった。庶民が主人公として描かれているのは北斎漫画が初めてと言われている。
お金に頓着がなかった北斎は常に貧乏生活を送っていた。去年のニューヨークのオークションで神奈川沖浪裏が約3億6000万円で落札されたという。75歳で「富嶽百景」を描く。浮世絵はヨーロッパでジャポニズムを起こし印象派に影響を与える。渋沢栄一が行ったパリ万博がきっかけだった。東海道五十三次がヒットとした広重が人気になると北斎は肉筆に挑戦する。小布施屋台の天井に男浪・女浪を描いた。
北斎の絶筆作品「富士越龍」を紹介。90歳で亡くなる北斎が3か月前の正月に描いたといわれる。制作日まで書かれているということでも貴重な作品。「あと10年、いやあと5年の命を与えてくれれば本物の絵描きになることができるのに」と言い遺しこの世を去った。
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