三田村鳳治さんは戦時中に特攻隊を見送った整備兵としての姿を語り部として伝えている。視力が悪かったために整備兵となったといい、片道の燃料だけでいいと命令がある中、終戦直前には自らも特攻を行うべきと考えるようになったという。しかし、三田村さんは上官からは「死ぬのはいつでも死ねる」「若いもの日本をどうするんだ」とこれからのこと引き止められたという。三田村さんは子どもという宝を大切にしたいと思うようになったといい、寺の本堂を開放したかぐのみ幼稚園を開いた。平和のバトンを繋いでいく事が死んでいった戦友たちへの弔いだと三田村さんは話している。