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8月12日は空の安全を改めて誓う大切な1日とされている。40年前の1985年8月12日、日本航空のジャンボ機が墜落をして520人もの命が失われた。事故機は羽田から大阪に向かう便で、犠牲者の約6割は関西在住の方だった。その1人に大阪・堺市を拠点に生け花の花道みささぎ流の家元として活躍していた男性がいた。残された妻は夫の跡を継ぎ、生け花を通して命と向き合い続けてきた。この事故の後、どう生きたのか。40年間の歩みを辿った。悲しみの底にいた妻を支えたのが、12年余の夫との共同作業。裏方として振り回されながらも、あらゆる作品作りに関わってきた経験が思い起こされた。夫の無念を少しでも晴らし、流派を守っていきたいと、跡を継ぐ意志を固めた。そして妻は大量の花を抱え、大阪から毎月、御巣鷹の尾根に登るようになった。520人すべての墓標に花を生けるためだった。最初に生けたのは結婚式を控えた女性だった。ヤマブキの花を花嫁衣装のベールのように仕上げた。幼い子ども2人と母親に向けては、家族みんなを和やかな雰囲気で包みたいと、キクを敷き詰めカスミソウをドームのように広げた。亡くなった人たちに、残された人たちにも届く花をと、7年近い歳月をかけて100回以上の登山を重ね、全ての墓標に生けることができた。夫から引き継いだ花は、妻の手で地域の子どもたちにも広がっている。この日訪れたのは地元・堺市の中学校。今、中学と高校あわせて20校の華道部の生徒たちに指導している。あの日から40年、夫の墓標には本人が大好きだったユリを生けた。
