TBS NEWS (ニュース)
日航機墜落事故から40年。日航機が墜落した御巣鷹の尾根では、遺族らが慰霊登山。今年慰霊登山に初めて参加した黒木瞳さんは、事故で宝塚歌劇団の同期生を亡くしていた。「早く来たかったが、認めたくない思いが強かった」などと黒木さんは話していた。
日航機墜落事故から40年。123便は羽田空港から伊丹空港へ向け午後6時12分に出発。しかし伊豆半島上空で異変を起こし、旋回を続けていたがその後信号が途絶え、午後6時56分に墜落。百里基地から2機の戦闘機が捜索へ。その戦闘機に搭乗していた南さんと渡辺さんがカメラの前で初証言。最初のインフォメーションは「飛行機、米軍かなにかが落ちた」というもので、ジャンボ機なんていう大きな飛行機が落ちたという認識はなかったという。午後7時15分に123便の信号が途絶えた地点に到着したそう。雲がきれるとオレンジ色の明かりがブワッと燃えているのが見えたそうで、いまも脳裏に刻まれていると話していた。一夜が明けた午前8時半ごろ、第一空挺団が現場に到着し、生存者の捜索や地形把握などの任務のため活動開始。小隊長として活動にあたった岡部さんは、想像を絶するほど悲惨な状況だったと話す。部分遺体が散乱し生存者がいるとは思えないと感じていた岡部さんのもとに生存者発見の知らせが届いたのは午前10時45分ごろ。「生きていてくれて本当に良かった」と岡部さんは話した。
123便の墜落原因は何だったのか。異変が起きた123便をとらえた写真では、飛行バランスをとるのに最も必要な部分である垂直尾翼の約6割が失われていた。飛行中に機内の気圧を一定にするための圧力隔壁が壊れ、その衝撃で垂直尾翼が破壊されたのだ。バランスがとれなくなった機体は左右に傾きながら蛇行し、墜落。墜落の7年前、この機体はしりもち事故を起こしていた。この時に圧力隔壁が損傷し、修理はボーイング社が行った。しかし墜落事故後の調査でその修理が不適切だったことが判明し、ボーイング社も認めた。なぜミスが起きたのか。警察はボーイング社の修理指示書を問題視。ボーイングの修理チームの技術部門から現場部門へ指示されたものだが、丁寧な書き方とはいえず、修理はこの通りに行われなかった。警察などは訪米しボーイング社の修理担当者などから聴取を試みるも実現せず。一方で警察は日航側に対しても「ボーイング社の修理ミスを日航が見逃した」として強制捜査に乗り出した。取り調べを受けたのは日航取締役松尾さん。松尾さんと親交があったジャーナリストの木村さんが取材に応じた。木村さんが松尾さんから受け取った当時の記録には、群馬県警の取り調べ内容や検察庁の事情聴取が書かれていて、修理ミスの責任めぐる警察と日航の攻防が記されていた。松尾さんは「会社としての責任はあると思う」としたうえで「日航が修理現場に立ち会えていない以上発見は難しかった」と過失否認。現在94歳となった松尾さんは番組の取材に対し「ボーイングを訴えるべきと高木社長に進言したことがあったが、行動はされなかった」などとコメントし、日航とボーイングの関係性がすべてが解明されない要因だと話す。松尾さんは「ボーイングは神様という社内の考えが社長にも染み込んでいたのかも。あるいは当時の良好な日米関係を忖度されたのかも」などと述べた。