2023年12月31日放送 6:00 - 7:30 テレビ朝日

ものづくりネットワーク大賞
『復帰50の物語〜つむぐ 伝える 歩む〜』

出演者
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(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

ものづくりネットワーク大賞
スタジオトーク

沖縄が本土に復帰してから50年の節目を迎えた。記念すべき50話をこの番組で特集するという。さらに出演者たちはこれまで特集してきた回の中でどれが印象的だったのかを話し合った。また今回は出来事、モノ、食、外から見たオキナワ、光と影、歌の5つのテーマに分けてお届けするという。

”モノ“から見る復帰 チャンプルー文化の源流

那覇市趣里に住む翁長良明さんは琉球最古の貨幣の中山通宝などこれまで沖縄に関する資料等を20万点を収集してきたという。今回はその中で沖縄が復帰したことを感じさせる資料を見せてもらった。復帰前にあったというウイスキーは戦後から1972年にアメリカ統治下で牧起こった洋酒ブームは、ウイスキーなどのボトルのラベルには琉球政府の関税刻印が入っている。さらに復帰前の沖縄であちらこちらで見かけたという給油所のカルテックスの看板が。カルテックスは1950年に沖縄瀬の石油給湯券を獲得し、その給油所は一社のみだった。最後のコレクションは本土復帰を果たした年に沖縄の子どもたちに配布しようと日本政府によって作られた記念メダルで、復帰を祝福する文言が入っていたために、復帰を喜ばしいこととは思わない人から批判を呼び途中で配布が中止された幻のメダルだという。

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カルテックスオイル那覇市(沖縄)
ナナサンマルの裏側に迫る 一大事業に奔走した人々

1978年の7月30日にアメリカ統治の最後の瞬間を見ようと多くの見物人が集まりあたりにサイレンが鳴り響く中で沖縄が左通行になった。戦後アメリカと同じ右側通行だった沖縄は本土に復帰してもしばらく続いたが、国の一国一交制度の遵守を理由に1978年7月30日に左側通行に変更された。当時交通規制班の班長だった久高さんは標識や表示をわずか8時間で取りかえた。変更には前もって左側通行容の標識を設置した上で7月30日当日まで混乱を避けるためのカバーがかけられた。沖縄全域で必要な数は24万枚で、県外の企業が製作する事が決まっていたが沖縄の企業にも作らせてほしいと訴えたのが砂辺松福 さん。その結果、縫製や納品について受注に成功しトラックの荷台カバーを作っていた経験が使い勝手の良い標識カバーを生み出した。神谷さんは沖縄のバス運転手だが、730ではなれない左側通行を経験し苦労した記憶がある。

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砂辺松福テント
県民の台所の再出発 活気あふれるまちぐゎー

県民の台所として親しまれてきた第一牧志公設市場。以前の建物は本土復帰の年に建てられたという。新しい市場おオープンは来年3月になるという。それまでは仮説市場で営業している。料理が楽しめる二階フロアでは創業67年の店が構えている。米について、今県内では様々な産地の美味しさを楽しむことができるが復帰前は日本の法律で米の輸出が禁止されていたためにアメリカ統治下の沖縄では日本米を食べることができず海外からの輸入米に頼っていた。そのために、世界的な食料事情の影響をもろに受けてお米が確保できない危機に陥ったという。食料を確保するために奔走したのが1950年創業の沖縄食糧。住民の食料をどう確保するのか?追い詰められた琉球政府は東南アジアにわたり交渉に挑んだが圧倒的な売り手市場で沖縄な全く相手にされなかったという。沖縄食糧創業者の竹内和三郎さんが命がけの熱意でビルマ米三万トンの獲得に成功した。1969年に沖縄の本土復帰が決まると日本の米が沖縄に輸入された。今では様々な産地の米が味わえるのはお米の確保に奔走した先人たちの存在がある。

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沖縄食糧浦添市(沖縄)竹内和三郎那覇市第一牧志公設市場
憧れから生まれたスイーツ チャンプルーで進化

ジャーマンケーキを沖縄に広めたのは1956年創業のジミー。売り場ではパイなどと並んで大きく展開され人気の商品。ジミー創業者の稲嶺盛保さんとジャーマンケーキとの出会いはアメリカ軍基地の中。軍雇用員として働いていた時に基地の中の豊かな暮らしを目の当たりにしたという。沖縄の人々がその日の食べる物に困っていた頃でフェンスの向こうの豊かな食文化は1人の青年の心を大きく揺さぶった。1956年5月に宜野湾市大山に雑貨店をオープンした店名のジミーは創業者の基地内でのあだ名だという。また盛保さんはアメリカ兵たちをアルバイトして雇い、ケーキなどの製造法を学ぶ。その時に生まれたのはジャーマンケーキだった。

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ジミー 那覇店稲嶺盛保
世界のウチナーンチュ 故郷でルールを見つめる

高良初子さんは10代で沖縄戦を経験し、日本人で初めてザンビアに渡ったが守礼の国を心に染めて大発展してほしいと答え、沖縄が平和であってほしいと答えた。

各地に広がる心のよりどころ 先代たちの生きた証 次世代に

東京・中野区には駅に近い通りには数店舗の沖縄料理屋が店を構え沖縄の思わせる風景がある他、エイサーを中心とした夏の風物詩など沖縄文化が根づいている。その始まりは1970年で、中野区が地方出身者のために開設することにした郷土の家のうちの一つが沖縄郷土の家。中野区から委託をうけた県出身の金城唯温さんが自宅を開放し、沖縄から上京してきた若者たちに居場所を提供した。東京になかなか馴染めない沖縄の人の心の拠り所になり、そこに集まっていた若者たちが県人会青年部の立ち上げに参加し、エイサーなどを行うようになった。

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中野区(東京)金城唯温

東京都狛江市には住宅街の一角に突如あらわれるのは沖縄県人寮の南灯寮が。終戦直後の1947年に戦時中や戦後の住宅難で下宿先の確保が難しかった状況に対応するため民間企業の寮を購入し誕生した。南の島に灯にと、沖縄を思う心から南灯寮と名付けられた。上京した沖縄の学生を支えている。大阪府大正区は人口6万人のうち、4分の1ほどが沖縄にルーツがある。リトル沖縄と言われるこの場所は、大正時代中期に戦後恐慌などで不況に陥っていた沖縄から多くの人々が職をもとめ大阪に渡った。その中で定住する人が増えたというがその後戦後アメリカの統治下になった沖縄に帰れなくなってしまった。身を寄せあうように県人会が発足。大阪市には9つの県人会があるという。中でも大正区には沖縄の人の御用達の商店街が並び、沢志商店という店は本土では馴染みのない漢字を使っていたために今の店名になった。また復帰運動も盛んに行われた。

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南灯寮大正区(大阪)大正駅沢志商店狛江市(東京)
貧困に立ち向かう若者 本土と異なる産業構造

沖縄復帰50年を記念する式典で、若者代表としてスピーチした平敷雅さんはアメリカで訪問先の家族が日常的に食料支援をしていたことをきかっけに学生ボランティアを設立し、食料品の寄付を募るフードドライブを行う。10年以上に渡って沖縄の不良少年や少女と向き合ってきた社会学者の打越正行さんは沖縄の貧困は本土と異なる産業構造になっていると指摘した上で国の対応の違いについて話した。打越さんは沖縄が抱える貧困の一つには建設業界における不安定な雇用環境がある他、将来性もなく、所得も賃金も上がりづらいという。そのことで女性や子供の貧困にもつながってしまうという。また本土では政府が支援をして業種を育て上げたことは明らかだが、沖縄の建設業に関してはそういう視線はないと答えた。

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VONSヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち国際通り沖縄コンベンションセンター
変わらぬ”基地の負担“県民願った平和島の今

辺野古新基地建設が強行されるゲートの入口前には埋め立てのための土砂を積んだトラックを止めようと市民らによる抗議行動が続けられている。基地のない平和な島を目指して果たされた復帰だったが今も変わらぬ現状に危機感を募らせる人達がいる。50年前に琉球政府の職員として復帰記念式典に参加した平良さん。10年前に基地のない平和な島を目指した建議書の作成に携わった。与那国町では、有事が起きた時の島民の保護と避難を目的に国民保護法についても保護計画を策定した。しかし、一つの自治体だけでは補えない部分があるという。50年経過してもなくならないアメリカ軍の基地。50年の間に次々と増える自衛隊の基地で基地のない平和な島とは言えない現状になっている。

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与那国島与那国町(沖縄)辺野古(沖縄)
時代を映す歌声と音色 次世代へ歌い繋いでいく

ジャズシンガーの齋藤悌子さんは高校卒業後の1950年代から50年代にかけてアメリカ軍基地内でステージに立ち続けた。50代で夫を亡くし一時は大好きジャズを封印していたが音楽仲間の後押しで活動を再開し今年始めてアルバムを発売した。西原町立坂田小学校の音楽部の子どもたちは6月に海勢頭さんから歌の指導を受けていた。月桃に込められた思いを改めて見つめ直す。海勢頭さんは月桃について語り、復帰10年を記念し、当時の人に話を聞いて回ったが誰も口を開かず、石垣に咲く月桃をイメージし、未来の子どもたちをお思って作った曲だと答え絶対平和の世界を作っていくという思いが込められている。

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Danny Boyプラザハウスショッピングセンター世界のウチナーンチュ大会月桃西原町立坂田小学校
海勢頭豊「月桃」

海勢頭豊らが、月桃を披露した。

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月桃
(エンディング)
エンディングトーク

出演者らが、今回の番組の総括を語った。

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