- 出演者
- 桑子真帆
太平洋戦争の開戦と同時に日本に住む外国人たちが突然とらえられた。敵国人抑留政策は全国51か所で約1200人が抑留された。多くは日本を愛して暮らしてきた外国人たち。世界で争いや分断が相次ぐいま、当事者たちが口を開いた。
オープニング映像。
敵国人とされた人たちが抑留されてきた跡地にやってきた。横浜の根岸森林公園の一部。作家の鴻上尚史さんは日系人が外国で収容所に入れられたというのは知っているが、敵国人抑留は知らなかったという。抑留の跡地は元々は競馬場だった。抑留者たちが生活していた建物が残っている。
出羽仁さんはイギリス国籍だった父から、戦時中3年8か月にわたって抑留されたと聞かされてきた。父・シディンハムさんは日本で生まれ育ち、大学の医学部で学んでいた。太平洋戦争の開戦でシディンハムさんの生活は一変する。開戦当日、大学で授業を受けていたシディンハムさんの元に警察がきてそのままとらえられた。全国各地で一斉に行われた抑留政策の目的の一つは敵国人となった外国人を日本人から保護すること。この政策を担った内務省の資料によると、もう一つの目的はスパイ活動の防止だった。抑留の対象としたのは敵国人の成人男性。政府は日本の機密情報が盗まれ敵国にわたってしまうことを恐れた。シディンハムさんはスパイ活動を行う可能性があるというだけで抑留された。抑留所では外出や外部との接触などの行動の自由が制限された。開戦から半年、日本の戦況が厳しくなる中、日本の抑留政策は拡大し、女性や高齢者も抑留された。日本人に英語などを教えて地域で慕われていた修道女なども含まれていた。イギリス人修道女の回想録には、抑留政策によって日本人の変化が記されていた。
抑留政策のねらいは日本人の思想の管理だったと指摘する研究者がいる。萩野富士夫さんは、政府はアメリカやイギリスに好意や憧れを抱く国民がいることを危惧していた、そうした意識を敵意・戦意へと変えて高めていく必要があったという。
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戦況の悪化がすすむ1943年半ば、抑留者の待遇がさらに厳しくなる。全国で抑留所の移転などがすすみシディンハムさんたちは70キロ離れた山間に移された。この抑留所で撮影されたとされる写真がある。抑留者は警察官によって監視・命令されるようになった。シディンハムさんはここでの生活を日記にしていた。シディンハムさんが日本に対する失望と怒りを深めていく様子が綴られていた。警察官たちが栄養失調の抑留者を放置したり、配給を奪って宴会を開いたりしていたという。抑留所の管理をしていた警察官の音声がある。そこには警察組織のモラルが低下していく様子が記録されていた。研究者の野間龍一さんは警察官が軍に次々と招集されたことがモラル低下の要因の一つだと指摘する。さらに、食料や物資が不足する中で多くの日本人が抱えた不満が非人道的扱いにつながった可能性もあるという。怒りを募らせるシディンハムさんはすべての日本人が悪いわけではないという思いとの間で揺れ動いていた。
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敵国抑留制度について鴻上尚史さんは理不尽でしかない、日本が好きだと思っているのに理不尽だと話した。スパイを探るのはわかるが、属性でまとめるというのは危険で恐ろしいことだとした。コロナ禍のときも自粛警察が出てきたりして、しんどくなると理解できないものを排除しようとしてしまう傾向があると話した。
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6月、1人の抑留当事者がイタリアから来日した。ダーチャ・マライーニさんは日本で抑留の事実が知られていないことに危機感を感じ自身の体験を語る決意をした。8歳まで抑留され、帰国後イタリアを代表する作家となった。出発した自伝には日本での抑留経験が綴られている。ダーチャさんは2歳のときに日本文化を研究する父に連れられて来日したが、日本と同盟関係にあったイタリアが連合国軍に降伏し、ダーチャさんたちは抑留された。ダーチャさんはかつて抑留されていた場所を訪れた。ここに抑留されたイタリア人は16人、配給を奪われて追いつめられたこともあったという。抑留所の痕跡は何も残っていなかった。1945年5月、空襲を逃れるために抑留所として使われることになった山あいの寺が残っている。ここではダーチャさんたちは監視の目を盗んで日本人と顔を合わせてやりとりをすることがあった。この寺に住んでいた加納啓子さん。啓子さんたちは食べ物を渡すなどダーチャさんたちを支えた。敵国人ではなく人間として向き合ってくれた人たちとの出会いもあり、ダーチャさんは切羽詰まったときでも自分と異なるものを尊重することの大切さを噛み締めている。
鴻上尚史さんは、相手が何人であろうが個人的に付き合ったら偏見なく、交流ができるのだと思うと話した。当時の政府が抑留して囲ったのは、交流してしまうと悪い人たちじゃないと分かってしまうのを恐れたかもしれない。鴻上尚史さんはイスラエル人の知り合いがいるが、イスラエルとその人は切り離して接しなければならないと話した。
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厳しい抑留生活をおくったシディンハムさんは戦後、同級生より遅れて医科大学を卒業した。仲間たちが支えてくれて復学できたのだという。形成外科医として、戦争で傷ついた人の治療に携わり、日本の医療の発展に力を尽くした。シディンハムさんの日記の終わりには「僕は国籍にかかわらず人々を同胞として扱い、悔いを残さないようにしたい」と綴られていた。
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