- 出演者
- 富澤たけし(サンドウィッチマン) 伊達みきお(サンドウィッチマン) 芦田愛菜
オープニング映像。
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- 葛飾北斎[初代]
すみだ北斎美術館には北斎に関する作品が約2200点所蔵され、いま国内外から多くの人が訪れている。毎年ヨーロッパなどでは北斎展が開催され、今年は大河ドラマの影響で国内でも浮世絵ブームが到来。今年開催された浮世絵イベントは85件以上に上る。今回の博士ちゃんは国際北斎学会で特別顧問も務める目黒龍一郎さん。5歳から北斎に憧れ、朝5時から絵の練習を行っている。北斎は見る人を楽しませるために、作中に様々なミステリーを残している。今回は長澤まさみ、塚地武雅などが北斎の謎に迫る。北斎は90回以上引越し名前も約30回変えている。
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- ColBaseすみだ北斎美術館アダチ伝統木版画技術保存財団サント・ヴィクトワール山セザンヌ・ベルンハルトニューヨーク近代美術館フィンセント・ファン・ゴッホベルリン国立アジア美術館レオナルド・ダ・ヴィンチ三体画譜北斎漫画 二編又吉直樹国本出版社国立国会図書館デジタルコレクション国際交流基金国際北斎学会塚地武雅墨田区(東京)太田記念美術館富嶽三十六景富嶽百景 3編島根県立美術館広益諸家人名録戯作者考補遺新板浮絵忠臣蔵 第五段目日本橋魚市繁栄図星月夜江戸八景 日本橋略画早指南百物語 お岩さん百物語 こはだ小平二神奈川沖浪裏葛飾北斎[初代]諸国瀧廻り・木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧長澤まさみ駿州片倉茶園ノ不二
1つ目の北斎ミステリー。「容裔不二」は波がない部分が富士山の形になっている。北斎は浮世絵をより多くの庶民に楽しんでもらうためトリックを仕掛けエンタメ性のある作品を数多く残している。
目黒さんと共に長澤まさみさんと塚地武雅が葛飾北斎 ミステリーに迫る。長澤は映画「おーい、応為」で北斎の娘を演じている。目黒さんは携帯用の筆記用具「矢立」の使い方や、自身で描いた北斎画などを紹介した。北斎など約1万5000点の浮世絵などを所蔵している太田記念美術館でトリックを解読する。
北斎が甲州三坂水面に仕掛けたトリック。2つの富士山の違いは季節が違う。御坂峠から描いた作品で夏と冬の富士山が描かれている。凱風快晴の作品は曇りから快晴になっていく様子が描かれている。
武陽佃島はバラバラに船が描かれていて船頭を結ぶと北斗七星が浮かび上がる。三河の八ツ橋の古図でも隠れ北斗七星が描かれている。北斎は北斗七星が好きで名前の由来も北斗七星から来ていると言われ、北斎とは北斎辰政の略。北辰妙見大菩薩から名前を拝借したと言われている。明治時代に書かれた「葛飾北斎伝」には風邪を引いた際に柚子湯を飲んだことが書かれている。
五百らかん寺さゞゐどうには見る人が富士山に視線が行くように、描かれた人々の目線も富士山を向いている。床板や軒先も富士山に繋がるよう描かれている。目黒さんの考察によると「最後の晩餐」と構図に類似点があり、イエスの額に視線が集中するように描かれているという。駿州江尻は服や髪のなびき方で強風を表現している。神奈川沖浪裏は波の弧に沿って描かれ、同一円状に富士山の山頂が来る。東海道吉田なども視線誘導の技術が用いられている。
芦田・サンドも富士山へ視線誘導させる絵に挑戦。富澤はクレヨンしんちゃんがお尻を出している絵を描き「俺の方は山2つあるぞ」と説明。目黒さんからは「新しい誘導の仕方」と評価された。
六歌仙・在原業平には“ありはらの業平”と文字絵が描かれている。寺子屋などでは教科書に絵文字を使用し歌川広重らも文字絵を描いている。長澤と塚地らも文字絵に挑戦。芦田は“あ”を帽子として表現した。
当時の銭湯を描いた「しん板くミあけとうろふ ゆやしんミセのづ」はエンタメ性に富んだ作品となっている。
「しん板くミあけとうろふ ゆやしんミセのづ」はペーパークラフトになっていて、当時は“おもちゃ絵”と呼ばれていた。幾何学的な書き方ができる北斎だからこそ、このような作品が生み出された。「教訓元禄きせかへ」は着せ替え人形のように楽しめる。北斎はおもちゃ絵を10作品ほど残している。
北斎には影武者がいたと言われている。菊図は北斎ではない別の人物が描いた部分があり、青い菊は立体的で写実的。ゴーストライターは娘の応為だと言われ、応為が描いた肉筆画は世に7作品しかないと言われている。太田記念美術館で応為の作品「吉原格子先之図」を目にした3人。陰影の技法が用いられていて、当時の主流に流されず陰影技法を極めた。目黒さんから陰影技法の指導を受け長澤・塚地も挑戦した。
応為の幻の美人画「蝶々二美人図」を目にした3人。目黒さんは生え際の描写に興奮。長澤は「細い線を均一に印象的に描くのはすごい技術」と絶賛した。北斎の描いた美人画の中には応為ならではの陰影テクニックを用いられたものもある。
葛飾北斎はなぜ江戸を離れ長野の山奥へ?なぜ死の間際に黒い龍を描いた?博士ちゃんと又吉直樹が長野・小布施町を訪れ、北斎ミステリーに挑む。北斎史上最大級の作品が岩松院の本堂にある。
岩松院で葛飾北斎の人生最大級の肉筆画、八方睨み鳳凰図を見学。大きさは畳21枚分。小布施の豪商・高井鴻山が北斎のスポンサーで、2200万円の制作費を全額負担。金銭的支援のある小布施は作品作りに没頭できる場所だった。高井鴻山は北斎の弟子でもあった。北斎が小布施に来たもう一つの理由は、天保の改革で浮世絵や歌舞伎など庶民の娯楽が規制されたこと。北斎は夕陽の角度を緻密に計算し、鳳凰図を金銀に光らせた。小布施には他にも高井鴻山がスポンサーとなった作品が多数あり、北斎館で展示されている。北斎唯一の巨大な立体作品は2台の祭り屋台。屋台の天井画が完成したのは85歳。死の5年前だった。北斎が江戸を離れ小布施に通った謎は、高井鴻山の後押しによって自由に作品を描きたかったから。
葛飾北斎はなぜ死の間際に黒い龍を描いたのか?
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葛飾北斎はなぜ死の間際に黒い龍を描いたのか?生涯3万点の作品を描いた北斎の絶筆は極めて貴重で通常展示はしていない。今年10年ぶりにフランスで公開され、15万人が訪れた。富士越龍には雪に覆われた富士山と空に昇る黒い龍が描かれている。
