- 出演者
- タモリ 渡辺瑠海 棚橋弘至 栗山英樹 川淵三郎 荒川静香
夢、希望、勇気をくれたスポーツの名場面を一挙公開。
オープニング映像。
テレビ放送70年の歴史の中でスポーツは視聴率上位を占めてきた。歴代2位の66.8%を記録した女子バレー・日本対ソ連戦。力道山とザ・デストロイヤーの名勝負は64.0%で歴代4位。1953年にNHK・日本テレビがテレビ本放送を開始した。白井義男の世界戦を見るため街頭テレビに人が殺到した。1964年の巨人・阪神戦では王貞治が4打席連続HRを放った。1970年には大阪万博が開催され、中山律子の人気からボウリングブームが到来した。1974年には長嶋茂雄が引退。引退セレモニーでの一言は今でも語り継がれている。同年にはジョージ・フォアマンとモハメド・アリの試合が行われた。両者へのファイトマネーはおよそ15億円と言われている。
ピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビューした1976年。アントニオ猪木とモハメド・アリの伝説の一戦が行われた。アリ側はおよそ20億円のファイトマネーを要求。アリ側のプロモーターだったボブ・アラム氏は「我々は筋書きを用意していた。しかし日本に行くと筋書きのあるエキシビションだと伝わっておらず真剣勝負することになっていた」と明かした。当時新日本プロレスで営業本部長を務めていた新間寿は「ルールでいろんな問題が起こりいろんな禁止事項が出てきた」と回顧。ほとんどのプロレス技を禁じられた猪木。最終的なルールが発表されないまま試合当日を迎え、その様子は世界37か国に衛星中継され14億人が視聴した。最終15Rまで戦い引き分けで幕を閉じた。当時中継ゲストだった石坂浩二は「歴史に残るたった1回の戦い」と称賛した。
猪木とアリの試合について棚橋弘至は「総合格闘技のルーツの試合と言われている」と語る。1972年に新日本プロレスを創設した猪木。棚橋弘至の「至」は猪木寛至から拝借したことを明かした。
1980年代、相撲界を席巻した千代の富士。初優勝を成し遂げた千秋楽の視聴率は52.2%。85年の阪神・巨人戦のバース・掛布・岡田バックスクリーン3連発が話題となった。1992年のバルセロナ五輪では競泳の岩崎恭子が14歳で金メダルを獲得した。翌年にはJリーグが開幕した。スター選手が躍動した開幕戦は視聴率32.4%を記録した。
初代チェアマンを務めた川淵三郎は「全くサッカーを知らなかった人の関心が増えてJリーグ人気につながった。6割はマスメディアのおかげ」などと誕生秘話を振り返る。
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- 日本プロサッカーリーグ
Jリーグ開幕から半年後、W杯アジア最終予選。日本は後半ロスタイムに失点し、W杯出場ならず。ドーハの悲劇と呼ばれている。川淵三郎はあの負けは相当意味があったと話した。1996年、ドジャースの野茂英雄が日本人初のノーヒットノーランを達成。標高の高いクアーズ・フィールドでの達成はいまだ野茂だけ。1998年、夏の甲子園決勝で横浜の松坂大輔がノーヒットノーランを達成した。この時代、プロ野球の巨人戦は絶大な人気を誇った。10.8決戦の視聴率はプロ野球史上最高の48.8%。
栗山英樹が巨人の人気ぶりについて語った。90年代の巨人戦ナイターの平均視聴率は20%前後だった。巨人の星、侍ジャイアンツなどがTVアニメとして人気だった。
1988年10月19日、ロッテvs近鉄。全試合を終えた首位西武に対し、近鉄は最終戦で逆転優勝を狙っていた。優勝の条件はWヘッダーで2連勝。第1試合は9回まで、第2試合は時間制限ありの延長12回まで。第1試合、9回表同点の場面で代打・梨田昌孝が勝ち越しタイムリー。9回裏をエース阿波野秀幸が抑えて近鉄が勝利した。阿波野も梨田もこの日の1勝目を今も鮮明に覚えているという。優勝をかけた第2試合、プライドをかけた両軍の意地が激突。関東でのテレビ放送は予定されていなかったが、急遽テレビ朝日がドラマを休止し、CMなしで野球中継を行った。
21時から全国放送された野球中継は、多くの人にパ・リーグの熱戦を印象付けた。優勝をかけた試合は歴史に残る激闘に。試合時間の制限が迫る8回表、ラルフ・ブライアントが逆転HR。しかしその裏、阿波野秀幸が打たれて同点に。ギリギリの攻防をテレビは伝え続けた。制限時間を迎え、近鉄最後の攻撃となる10回表。試合は引き分けに終わり、近鉄は優勝を逃した。翌日の新聞は西武優勝よりこの熱戦を大きく報じた。
1998年にW杯初出場。2002年、日韓ワールドカップでサッカー日本代表が国民的人気に。ロシア戦の視聴率は歴代3位の66.1%。この時代のスーパースターが中田英寿。ジョホールバルの歓喜でW杯初出場の立役者となり、セリエAへ移籍。デビュー戦で2ゴールを決め、日本人初のセリエA制覇を果たした。
タモリは中田英寿の活躍が日本の選手たちが海外に出ていくきっかけになったと話した。川淵三郎は欧州5大リーグで日本人選手が活躍しているのは夢のようだと話した。
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- 中田英寿
元ブラジル代表・元日本代表監督のジーコにインタビュー。中田英寿は究極のプロフェッショナルで、日本サッカーの歴史の中で最高の選手だと絶賛した。2006年ドイツワールドカップで中田は厳しい発言で日本代表を鼓舞。敗れたブラジル戦が中田のラストマッチとなった。
他のスポーツでもスターの出現が競技を発展させてきた。2000年のシドニー五輪ではマラソンの高橋尚子が金メダルを獲得。視聴率は40.6%。国民栄誉賞を受賞した。2001年から世界水泳が地上波のゴールデンタイムで放送スタート。北島康介はアテネ五輪で日本競泳史上初の2冠を達成。さらに北京五輪で2大会連続2冠を成し遂げた。2005年のフィギュアスケートGPファイナルで当時15歳の浅田真央が世界一に。視聴率は26%。そこから日本フィギュア界に続々とスターが生まれた。トリノ五輪で荒川静香がアジア史上初の金メダル。安藤美姫が初の世界女王に。バンクーバー五輪では高橋大輔が日本男子史上初の銅メダル。
羽生結弦は平昌五輪男子シングルで66年ぶりの連覇を達成。世界記録更新19回。2015年のグランプリファイナルではフィギュア界で語り継がれる伝説の演技を披露した。世界歴代最高得点でGPファイナル男子シングル史上初の3連覇。羽生は目標設定が高いからこそ世界記録を塗り替えていけるようになったと話した。そして羽生・浅田らのレガシーは現世界王者の宇野昌磨にも受け継がれている。
タモリは目標設定が低いから楽だと話した。荒川静香は2000年代にフィギュアスケート界が大きく変わっていったと話した。グランプリファイナルは2005年からテレビ朝日で地上波中継が始まった。2002年ソルトレーク五輪まで金メダルは欧米選手のみだった。荒川は羽生結弦についてカリスマ性が大きく考えている次元も違うと話した。
2000~2010年代の名場面を紹介。2000年、シドニー五輪柔道女子48キロ級決勝で田村亮子が金メダルを獲得。過去2回の挑戦は銀メダルに終わっており3度目の挑戦で悲願の金メダルを獲得した。
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- シドニーオリンピック田村亮子