- 出演者
- タモリ
今回、タモリらが訪れたのは三十三間堂。三十三間堂は仏像がたくさんあることで有名。タモリらは1年に1度だけ開く特別な門から三十三間堂へ。お堂の長さは南北120mに広がる。現在、日本で2番目に長い木造建築とされている。1位は大阪・関西万博の大屋根リング。正式名称は蓮華王院本堂。平安末期の1164年に創建。現在の建物は鎌倉時代に再建されたもの。お堂の中には1032体の千手観音立像などがある。そのすべてが国宝に指定されている。
今回のお題は「国宝・三十三間堂はなぜ守られた?」。
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- 蓮華王院本堂
三十三間堂を作ったのは後白河法皇。後白河法皇は平安時代末期から鎌倉時代にかけて約30年間 政治の実権を握った人物。後白河法皇がこのお堂を造った理由は平安時代に貴族の間に広まった末法思想。末法思想とは釈迦が亡くなり2000年経つと仏の教えが伝わらなくなり世の中が乱れるという考えのこと。後白河法皇はお堂を建てることで仏の世界は素晴らしいと表現した。お堂にある観音様は違う時代のものが混在している。
三十三間堂は1249年(鎌倉時代)に全焼している。そして、1266年(鎌倉時代)に再建している。平安時代の観音様は124体残っている。お堂が焼ける中、観音様を必死に運び出したという。現在、三十三間堂は最新の防火設備に守られている。阪神・淡路大震災の際も観音様は将棋倒しになることはなかった。理由は立像の重心が低く作られていたためだという。
三十三間堂の最大のピンチは応仁の乱。応仁の乱は約11年に及んだ内乱で京都全域が戦場になり壊滅的な被害を受けた出来事。応仁の乱をくぐり抜けた建物は京都市内に4つしかなく、うち1つが三十三間堂。ただ、応仁の乱以降は国内が戦乱の世に突入したため、それまで三十三間堂を守ってきた人たちがそれどころではなくなってしまった。そんな中、ピンチを救ったのは1002体目の観音様。室町時代に作られたもの。当時はお寺に自由にお参りもできなかったため、この室町仏が出開帳として全国を行脚。参拝に来た人たちからたくさんの寄付を集めたという。
三十三間堂は山からの伏流水が噴き出てくる立地に建っている。そのため、深さ1m50cmの深さまで砂と粘土を交互に積み重ね土壌を改良した。この800年前に行った土壌改良は阪神・淡路大震災からも三十三間堂を守ることとなった。かつて、三十三間堂は南大門と大仏殿の間に建っていた。大仏殿には豊臣秀吉が造った大仏があった。後に大仏殿は焼失している。秀吉の死後、西向きの大仏殿と東向きの観音様を一体化させて、ひとつの大きなお寺にした。三十三間堂は巨大宗教空間に組み込まれる前はいわば独立経営だったが、徳川家康の庇護の下、資金にも恵まれ、現在まで守られることとなった。
江戸時代、三十三間堂ではあるイベントが行われていた。それは120mの廊下を射通す競技・通し矢。徳川御三家が威信をかけて戦っていたという。
エンディング映像。
次回予告が流れた。
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