- 出演者
- 日村勇紀(バナナマン) 設楽統(バナナマン) 小室瑛莉子 オダギリジョー ヒコロヒー
今から70年前、東京のある店で国民的料理が登場した。店員が食べていたまかないは残り物をアレンジして作ったものである。それはつけ麺。今から74年前に創業した大勝軒でラーメンを作るときに残った麺を使いまかないとしてつけ麺は食べられていた。
オープニング映像。
1853年にニューヨークにあるムーン・レイク・ハウスホテルのレストランで料理が分厚いというクレームが発生した。このクレームによって、ポテトチップスが誕生した。
75年前、老舗料理店の店主の三宅は新料理の名前に悩んでいたが、洗い物ので名前をひらめいた。
- キーワード
- 三宅忠一
厨房の洗い物の音から名付けられたグルメはしゃぶしゃぶ。このしゃぶしゃぶ発祥のお店は中国由来の肉鍋を改良したスエヒロ本店。
- キーワード
- 永楽町スエヒロ本店
今から138年前にとあるお菓子メーカーは地元の人たちに愛されてきた。そして今からおよそ70年前二代目社長は地元ならではのお菓子を作りたいと考えた。そんな時旅先で新しいお菓子のアイデアが浮かんだ。そのお菓子は1961年に発売し物珍しさもあり話題となった。さらに交通網の発達で知名度もアップした。
開発されたお菓子はうなぎパイ。代名詞は「夜のお菓子」。それは一家団欒のひとときをうなぎパイで過ごして欲しいという願いの元でつけられたが、あらぬ解釈をしてしまう人が続出した。スタジオでうなぎパイを試食した。
1908年にとある駅弁を製造する会社が誕生した。当初は駅の構内で寿司などを販売しその7年後に駅弁を販売していたが売り上げは伸び悩んでいた。彼らが駅弁を販売していたのは大型のターミナル駅の近くだったからだ。そこで地元の名物料理を探すことにした。そんなある秘あるものをお通しとして食べた。開発されたのが崎陽軒のシウマイ弁当。崎陽軒が駅弁を最初に販売していたのは横浜駅で近くに東京駅があるため駅弁は売れなかった。そんな中横浜中華街に行きそこで焼売を見つけた。現在シウマイ弁当は横浜駅以外でも販売している。
いまからおよそ50年前、大手食品メーカーの社員は新商品の名前を考えていた。
商品の名前は日清焼きそばU.F.O.。この時世間ではUFOブームもあった。また業界初の丸い皿の容器にした。
- キーワード
- 日清焼きそばU.F.O.松鶴家千とせ
命名のもう一つの理由はコンセプトの頭文字からUFOがふさわしいとされた。若者を中心に大ヒットした。
- キーワード
- 日清焼きそばU.F.O.
菓子メーカーの石水勲は新商品のお菓子の開発に取り組んでいた。元々は駄菓子の製造をしていたが、経営が傾き洋菓子作りに転身することにした。お菓子は完成したが商品名が思いつかなかった。そんなある日父の言葉でひらめいた。
ホンマでっか!?TV、最後の鑑定人の番組宣伝。
ブラック・ショーマンの宣伝。
フランスグルノーブルで開催された冬季オリンピックでそこで使われた曲のメインテーマ「白い恋人たち」からヒントを得た。そのお菓子は白い恋人。
1970年、櫻田は会社を退社し同僚たちと新しい商売を始めた。それは靴の出張販売。しかし売れずにギリギリの生活を送っていた。そんなある日会社員時代に食べたあるグルメに挑戦することを決意した。櫻田はロサンゼルスに行き、そのグルメを学ぼうとた。こうして無償で働く代わりにレシピなどを教えてもらった。日本に帰り開発に取り掛かり半年後に完成した。しかし都心に出店が出来ず3人は物件を見つけた。倉庫を貸してもらうべく、青果店の手伝いをして貸してもらうこととなった。こうしてオープンしたのがモスバーガーだった。櫻田たちが修業に行ったのはロサンゼルスのトミーズで現在でもモスバーガーの研修が行われている。
オープン当初、新たな人材も雇った。営業時間は朝6時半~夜11時。しかしなかなか上手くいかなかった。そんな中、櫻田が過労で倒れてしまった。この時に忘れていた笑顔を取り戻した。また客とのふれあいが憩いの場へと変えていき、放課後のたまり場となっていた。しかしまだギリギリの経営状況であった。オープンから半年後に食品会社の開発部長に相談した。日本人にも馴染む味にするよう開発を進めた。こうして出来たのがテリヤキバーガーだった。しかしテリヤキバーガーは売れなかった。
テリヤキバーガーを広めた一人にインタビューをした。その後1978年にはモスバーガーは90店舗に拡大した。しかし向かい側に大手ハンバーガーチェーン店が出来ることとなってしまった。
- キーワード
- モスバーガー
競合店開店日に大勢の常連客が並び夕方には地元の学生が訪れた。また代表取締役社長も学生時代は常連だったという。
うなぎには大きく分けると2種類の焼き方があり、関東のウナギは蒸してからふっくらやわらかく焼き上げ、関西は蒸さずに焼くのが特徴。兵庫県西宮市のうなぎ心斎亭には女性うなぎ職人がいる。職人を志したのは30歳を超えてからだった。上田智子さんは大阪府堺市生まれで幼い頃はメンコの達人だった。高校卒業後は専門学校へ行ったが卒業する頃は就職氷河期真っ只中だった。とある中小企業で経理として雇ってもらった。しかしある日社長から部署異動をお願いされた。