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人気観光地ブーム、美容ブームなど、ブームの波が生まれた波乱万丈の歴史を振り返る。
様々なブームの波を見ながらその中にある浮き沈みを見ていく番組だと紹介。
今回は熱海。東京から新幹線で約40分。相模湾を一望できる絶景温泉地で、2024年の宿泊者数は年間306万人。熱海プリンをはじめ食べ歩くグルメが充実。昭和レトロブームも相まって若い女性たちい人気を集めている。その歴史は749年、僧侶が夢のお告げを受け、その通りにする海中の温泉が熱海の陸地になったという。以降、江戸時代に湯治がブームとなり、徳川家康も熱海の湯を愛した。関ヶ原の戦い前日に浸かったとされる。徳川家綱の命で江戸まで湯を運んだという話も。明治時代には伊藤博文ら大物も訪れた。1950年代、新婚旅行先として大人気となり臨時列車も出発した。しかし熱海では新婚さんによってあり得ない事が起こった。
Q.熱海で新婚さんによって起こったあり得ない事とは? 東京駅から花束を持って熱海にやったまま観光するのは厄介なので、花束を改札口のところに、捨てる場所があったとのこと。大きな箱に捨てていったという。1964年、高度経済成長期の中、東京オリンピックが開幕した。1964年10月1日にあった出来事から熱海の客層に変化があったという。東海道新幹線の開通だ。東京から熱海は150分かかったが、60分になった。会社の忘年会や社員旅行で熱海が選ばれるようになった。駅前には看板を持っている人がたくさんいた。街には下駄の音が一晩中聞こえていたという。1962年創業の熱海ニューフジヤホテル。絶景の温泉が大人気だ。従業員の数は400人以上だったとのこと。庶民に定番の観光地になった。1991年頃、熱海の波もピークになった。宴会場はディナーが終わったらナイトクラブになった。大ピンチが訪れた。TOKYO NODE ボリュメトリックビデオスタジオという最先端のスタジオで撮影した映像が流れた。徳川家康に愛された熱海。1991年にはバブルは崩壊した。日本全体が暗くなった。社員旅行は激減。ホテル旅館は20軒廃業。観光業界全体も尻すぼみとなった。熱海ニューフジヤホテルは、料金を下げた。サービスを充実させた。若い人達には、宴会のイメージ。箱根は食べ歩きなどが充実し、若者に人気があった。熱海は箱根をライバルだと思ったという。ある男が熱海を救った。2012年頃は、テレビの影響力が強かった。市役所の職員がテレビ番組を受け入れる体制を整えた。1人で対応したという。いつでも対応できるよう自分の携帯番号を告知していた。職員の携帯電話は鳴り止まなかった。ニワトリを旅館の客室に放して寝起きドッキリを行う撮影は大変だったとのこと。2人乗り自転車で山道往復ロケハンもたいへんだったとのこと。1番たいへんだった依頼はなにか。
当時イケイケのテレビ業界からの無理難題。最も大変だったロケの準備は「街中でゴルフをする企画」。やろうとする企画がおかしい上に周辺の家を30軒ほど許可をとって回らなければならなかったという。どんな無茶振りにも応え続けた結果、熱海でのロケ件数は急増。一時はバブルの派手な大人の宴会場所というイメージが定着していたが、テレビ露出により身近で誰でも訪れやすい観光地へ。2019年には年間309万人までV字回復を遂げた。しかし、日本・世界を襲った新型コロナウイルス。
商店街の店や旅館が閉じ、街は活気を失い、熱海の宿泊客数は年間149万人まで減少。しかし、コロナが落ち着いてきた時、昭和レトロブームが。昔ながらの食品サンプルや射的など昭和レトロな雰囲気がSNS映えすることから若者世代に大バズり。昭和レトロブームの代表となったのがバブル時代には豪華絢爛な造りで熱海の象徴と言われたものの時代の変化とともに古さともなってしまっていたホテルニューアカオ。コロナで閉館に追い込まれたが、昭和の雰囲気が昭和レトロブームに乗り大復活。さらに商店街は増えた若者客を取り入れようと話題のスイーツ店が次々オープン。熱海海上花火大会も再開し昨年はたくさんの方が訪れた。映える熱海効果で2024年には宿泊客数306万人まで回復。ほぼコロナ前の数字を取り戻した。しかし、熱海はさらに先を見ている。今度は国内外の富裕層の取り込みにも力を入れている。貴島は「フィルムカメラ持って遊びに行きたい」と話した。
続いての神ウエーブは美白。紀元前3000年の古代エジプトでは日差しが強く、明るく白い肌を持つことが美の象徴とされていた。このため当時の人達は米ぬかとジャスミンオイルを塗って白い肌を目指したと言われている。一方飛鳥時代の日本では持統天皇に唐の僧侶が白粉を献上したことがきっかけで、肌に白粉を塗って美白に見せる文化が広がっていった。平安時代には灯りの無い宮廷でも美しく見えるよう白く見える肌を持つことが美人の象徴だとされた。江戸時代になると白粉の塗り方などを書いた化粧の指南書が出版され、美白文化は庶民にも浸透していった。またこの頃になると白粉を牛乳で溶いて顔に塗ってから寝るという日明けケアのパックの文化も広がっていった。昭和の高度経済成長期になると女性の社会進出の機会増加に伴って化粧品の消費量も増加し、美白パウダーという商品が発売されたことをきっかけに美白という言葉が世の中に浸透していった。一方1966年に当時18歳の前田美波里が資生堂の化粧品ポスターに採用され、美しい小麦肌に日本中が目を奪われた。当時小麦肌は海水浴などに行ける余裕がある富裕層のシンボルとされていて、高度経済成長期の庶民の憧れとして日焼けがブームとなった。1973年になると山口小夜子の化粧品ポスターが話題となり、美白のスーパーモデルへの憧れから再び美白ブームが起こった。1977年には当時19歳の夏目雅子が起用されたCMがきっかけで再び小麦肌に注目が集まり、榊原郁恵やアグネス・ラムなど小麦肌の美女たちが当時の芸能界を席巻していった。80年代に入ると小麦肌が目を引くビールのイメージガールが登場し、小麦肌への憧れがより強まっていった。1992年には安室奈美恵がデビューし、ファッションやメイクを真似るアムラーやコギャルブームを生み出した。またこの頃にはギャルに特化した雑誌も登場し、ガングロギャルが出現するなど小麦肌ブームが勢いを増していった。
麻衣さんがガングロギャルメイクで当時使用していたのがマッキーペンだという。こうした小麦肌ブームの一方、各化粧品会社がUVカットや美白ケア商品の開発に注力し始めた。そして”美白の女王”と呼ばれた鈴木その子さんの登場で美白の一大ブームが巻き起こった。そこから紫外線対策は進化を遂げ、今では塗る・かけるだけではなく体の中からケアする商品も登場している。明治では乳酸菌研究の知見を活かして紫外線対策に効果のある「SC-2乳酸菌」を発見し、試行錯誤を重ねて「明治Wのスキンケアヨーグルト」を開発したという。スタジオで試飲した出演者は「美味しい」などとコメントした。
「LE SSERAFIM」のSAKURAさんのSNSがきっかけで若い世代を中心に編み物がブームになっている。ユザワヤでは毛糸の売り上げが前年の1.5倍。100円ショップでも全国的に品薄状態だという。こうした編み物などデジタルデトックスになるハンドメイドが若い世代で流行っている。
昭和では5円玉で作る亀や不要なチラシで作る鍋敷き、タバコの空き箱を使った傘などのハンドメイドが流行った。子どもにはプラバンやリリアンなどが流行った。他にも編み物のおもちゃやマクラメという手芸技法などが紹介された。またミサンガは色や着ける場所によって意味が異なるという。