2024年7月13日放送 8:15 - 9:00 NHK総合

新プロジェクトX〜挑戦者たち〜
「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」

出演者
有馬嘉男 森花子 黒柳徹子 
(オープニング)
トットちゃんの学校 戦時下に貫いた教育の夢

黒柳徹子には人生を支えた記憶がある。87年前に東京の片隅に開校した風変わりな小学校「トモエ学園」。落ち着きがないという理由で小学校を退学になった黒柳を受け入れた。学校を作ったのは「どんな子どもも素晴らしい才能をもっている」という信念を持っている一人の音楽教師だった。トモエ学園には障害がある子どもや差別を受けた子ども、他の学校で受け入れられなかった子どもが多くいた。これは激動の時代に信念を貫いた教師と子どもたちの物語。

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トモエ学園
オープニング

オープニング映像。

オープニングトーク

黒柳徹子の自叙伝「窓ぎわのトットちゃん」にはトモエ学園の日常がいきいきと描かれている。今もなお、トモエ学園のような学校に通わせたいという声が上がっている。記録は殆ど残っていないと言われていたが、戦火をのがれた貴重な資料と出会う事ができた。

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窓ぎわのトットちゃん黒柳徹子
トットちゃんの学校 戦時下に貫いた教育の夢
トットちゃんの学校 戦時下に貫いた教育の夢

大正10年、日本はつかの間の平和の中にあった。時代は大正デモクラシー。学校制度が整えられ子どもたちの就学率も上がっていた。そんな中、東京音楽学校、後の東京藝術大学を卒業したばかりの若き音楽教師がいた。小林宗作28歳。音楽の楽しさを伝えたいと意気込んでいた。自らオルガンを弾く小林は子どもに人気の先生だった。しかし心の奥にある葛藤を抱えていた。当時多くの学校で徹底していたのは一斉教授の模倣。図画の授業は好きなものを描くのではなく、見本を正確に写し取らせる。作文も大人が書いた手本を書き写して教え込む。そして音楽。大人が教えたい道徳的な内容を盛り込んだ唱歌ばかりだった。小林はいらだちを込めてつづっている。「こんな心持ちが子ども心のどこにあるか。心にもないことを歌わされている子どもがかわいそうでならない」。小さい時の無邪気な歌声が年が上がるにつれ消えていく。音楽教師としての自分に限界を感じた小林は30歳で教師を辞めた。

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新たな教育を探し当てもなくヨーロッパへ向かった小林にある出会いがあった。その様子を聞いた人物が小林の娘、本間みさをだった。出会ったのは国際連盟事務次長を務める新渡戸稲造。当時話題になっていた学校を紹介してくれた。その学校はパリにあった。感性の豊かな音楽家を育てるために考案された「リトミック」という方法が実践されていた。大事にされていたのは自分の中に流れるリズムに逆らわないこと。日本の教育との違いに驚いた小林はここで学ぶことを決意。小林の孫の家にはパリで研究に打ち込んだ時の資料が残っている。言葉も通じぬ異国の地で1年間、小林にある思いが芽生えた。教師の役目は子どもの好奇心をくすぐり自らのリズムで学べる環境をつくることなのではないか。小林はもう一度教壇に立ちたいと思った。昭和12年4月、小林の考えに賛同した人々の支援を得てトモエ学園が開校。くしくもその年、日本は日中戦争へと突き進んでいく。教室には子どもたちがワクワクするようにと使わなくなった電車の車両を持ち込んだ。この新しい学校にはさまざまな事情のある子が入学してきた。高橋彰は体の成長が止まってしまう病気だった。いつも小さな身体を気にしていた。桂るり子は祖父がフランス人だったので差別を受けていた。黒小柳子は活発過ぎる言動が、他の子の迷惑だと小学校を1年生で退学になった。

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スタジオトーク

黒柳徹子はトモエ学園の卒業生。初めて小林宗作に会ったときの印象を聞かれ黒柳は「いきなり、お母さんはお帰りください、僕は君と話するからって私だけ残された。向かい合わせに座って、話したいこと全部話してごらんって。4時間、私の話を聞いてくださった」などと話した。黒柳が通っていた昭和15年頃は教師10人、生徒40人が学んでいた。黒柳は「学校に行くのが楽しみで、家に帰るより学校にいきたかった」などと話した。

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トモエ学園
トットちゃんの学校 戦時下に貫いた教育の夢

トモエ学園の授業は独特だった。通常の学科の他に小林がピアノを弾くリトミックが毎日行われた。教師には小林の理念に共感した者たちが集まっていた。トモエ学園に教師の助手として入った高田薫。高田はこれまで見たことのない教師と子どもの関係に驚いた。教師たちは授業に好奇心を引き出す工夫をちりばめた。算数では駅前の自動販売機で10個入りのキャラメルを買った。いくつか食べた時残りの数を尋ねると子どもたちは夢中で数えた。山内泰二はこの授業を今も鮮明に覚えている。副校長の丸山邦秀は歴史の授業で散歩に連れ出した。「泉岳寺にお参りに行こう」。丸山は寺に眠る赤穂浪士の秘話をセリフを交えて伝えた。教室の中だけではなく生活の全てを学びの材料にした。しかし太平洋戦争が始まると教育現場への圧力は更に強まった。「国に尽くす国民を育てる」。トモヱ学園の教育には批判の目が向けられるようになった。やむなく転校していく子どももいた。学校の経営は苦しくなった。小林の息子、巴は父親に方針の転換を迫ったが小林は「教育は0年先を見て行うものだ」と突っぱねた。小林が特に気にかけていたのは事情のある子どもたちの先行きだった。

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山内泰二は他の学校で発育不良と言われ入学を断られた。ある日「君にしかできないことを見つけることが大事」と小林は言われた。山内は勉強が得意だった。教室に実験器具が置かれていた。電気工学技師の父のように実験をしてみたいと思い、以来実験に没頭するのが山内の日常になった。黒柳はここでも毎日のように騒動を引き起こしていた。しかし頭に刻まれたのは「君は本当はいい子なんだよ」という小林の言葉だった。ある日くみ取り便所に大事な財布を落とした。何とか財布を取り戻したい一心でひしゃくを突っ込んでくみ上げ、しまいには肥だめの中のものを全てぶちまけてしまった。そこに偶然通りがかった小林は「終わったらみんな戻しとけよ」ひと言も怒られなかった。世の中の全てが戦争一色に駆り立てられていった。その中で小林が続けた授業がリトミックだった。しかし本土空襲が始まり、子どもの集団疎開が決定。トモエ学園も授業を続けられなくなった。

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トモエ学園山内泰二
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黒柳徹子は「戻しておけよだけだった。危ないからよしなさいとか、手伝おうか?とか、なんでそんなことをしたんだい?とかそういうのは一切なかった。」などと話した。トモエ学園には体が不自由な子もいればお転婆の子もいる。先生たちはよく「一緒にやるんだよ」と言っていた。黒柳徹子は「静岡に遠足に行ったときは、みんなで仲良く手を繋いで行きました」などと話した。

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トモエ学園山本泰明
トットちゃんの学校 戦時下に貫いた教育の夢

トモエ学園が疎開した場所は小林のふるさと群馬。山を開拓して食糧を確保し即席の教室で授業を行った。また電車の教室で一緒に学ぶ日を夢みていた。しかし昭和20年、アメリカ軍の爆撃機が東京南西部を襲い4月15日、トモヱ学園は直撃を受けた。群馬から戻っていた小林は学校が燃える姿を目撃した。当時17歳だった小林の娘・みさをは父の「今度はどんな学校を建てようか」という言葉に驚いた。学校の再開はかなわなかった。戦後の混乱、再開資金などあるはずもなかった。残っていた子どもは転校することになり開校から9年、トモヱ学園小学校は幕を閉じた。戦後の小林は教育者を育てることに力を注いだ。幼稚園や大学で自らが実践した教育の種をまき続けた。そして昭和38年、その教育が注目を浴びることなく小林は亡くなった。

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トモエ学園小林宗作東吾妻町(群馬)群馬県

15年後、アメリカ・イリノイ州。物理学の偉業となる新粒子発見のニュースが駆け巡った。研究者の名は「タイジヤマノウチ」。かつて発育不良と言われてトモエで学んだ山内だった。内気だった少年は日本を飛び越え世界的な物理学者になった。体の成長が止まる病気だった高橋彰。電気機器メーカーに就職、調査役として公平な人柄で愛された。小さな体が悩みだった。しかしトモエの運動会では高橋が有利になる競技がそれとなく組み込まれていた。それが自信をくれたと黒柳に語った。フランス人を祖父に持つ桂は差別を乗り越えた。胸を張って女学校に進み2児の母となった。子育てはいいところを褒めるトモエ流だった。桂が心の支えにしていたのはトモエでの創作ダンスの思い出。桂は魚になりきった。その踊りを見た小林が「本当に上手だなあ」と褒めてくれた。桂は今年4月、92歳で亡くなった。最期までその思い出を大事に語った。「教育は20年先を見て行うものだ」、その言葉どおり教え子たちは自分の花を咲かせていった。今トモエ学園の跡地には卒業生による記念碑が建てられている。

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スタジオトーク

黒柳徹子は「トモエがなかったらまた私がゴタゴタして、きっと今のようにはなってない。芸能界入って大変なこともあったけど、いつも自分でやれるんだと思ってやってきた」などと話した。黒柳は「大人は子どもに声を掛ける時、この子の一生を決めるんだと思うくらいの気持ちを込めて、叱ったり、褒めたりしていただければと思う。どんな子でも必ずいいところがあるにちがいない。何かあるたびに小林先生は凄かったんだなって思う」などと話した。

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トモエ学園山内泰二
トットちゃんの学校 戦時下に貫いた教育の夢

亡くなる1年前の小林さんを映した貴重な8ミリフィルムが見つかった。教育を志す学生に最後まで伝えたのは子どもの可能性を信じることだった。戦後、小林さんの教え子は数多く羽ばたいた。2500人以上の子どもを育てた大場里子さんは「小林先生に会ってからいろんなことが変わった。今までの常識を覆すようなことばっかりだった。小林先生に会えてよかった」などと話した。小林が教え子と共に勤めた「国立音楽大学附属幼稚園」では、自分のリズムを感じる授業が大切に受け継がれていた。園庭の一角に咲く藤の花は、トモエ学園の庭に咲いていたものだった。

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(エンディング)
次回予告

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