- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 柴田正樹 中田正起
400年前、江戸時代に建てられた城郭建築の最高傑作、国宝「姫路城」。黒田官兵衛や羽柴秀吉も城主を務めた天下の名城。壁や屋根の瓦全てに漆喰が塗られ真っ白に光り輝くその姿から「白鷺城」と呼ばれ親しまれている。創建当時の美しい姿を残していることが評価され日本初の世界文化遺産に登録された。しかし今から16年前、その美しさはむしばまれていた。日本の宝を守るため「平成の大修理」が始まった。
オープニング映像。
今回の舞台は「姫路城」。姫路城は創建当時の姿をまるまる残している。大天守は50年に1回、大規模な修理が行われ前回は昭和30年代に行われた。今回は台風などの影響で予想以上に腐敗が進んでいたため、修理を5年早め45年ぶりに行うことにした。全国から1万4000人の職人が集まり、プロジェクトが始まった。
2009年、大天守を覆う巨大な足場が組まれ平成の大修理が始まった。修理工事の責任者は「昭和の大修理」も手がけた鹿島建設。そのもとに宮大工や左官などの腕利き職人が集められ一大プロジェクトが幕を開けた。まず行われたのは屋根瓦の修理。その数7万5000枚。それを一枚ずつ取り外し傷んだ瓦は新しく作り直したうえで一から並べ直す。その大役を任されたのは瓦職人の串崎彰。串崎はかつて昭和の大修理を手がけた名工、山本清一のまな弟子。数々の文化財修理に携わった経験を買われ瓦ぶきのリーダーに抜てきされた。瓦を外し始めてすぐ、串崎はがく然とした。瓦を支えるクッションとして置かれた大量の土が雨水を吸い込み土台の木が湿っていた。原因は傷んだ漆喰から水が入って土に伝わり乾かなくなったこと。この状況を目の当たりにした串崎は昭和の大修理を手がけた師匠、山本の話を思い出した。当時若き棟梁だった山本は屋根に大量の土を置く危険性に気付き従来の工法を変えようとしたが認められず断念。その無念の思いを串に伝えていた。串崎彰は「なんとかせんとと思った」。しかしある難題が立ちはだかった。文化財は伝統の材料や工法を後世に伝えるため、使えるものは残すという大原則があった。400年続く伝統を受け継ぎつつ姫路城を災害から守るにはどうすればよいか。新たな工法を図面に描き試行錯誤を重ねること1か月、串崎の生み出したある方法が認められた。2011年11月、その工事が始まった。土台となる木を追加して格子状に組み上げ、そこに代々使われてきた土を最小限の量に減らして入れる。瓦を支えるクッションとなる土の良さは残しつつ土台の木にしっかり固定する。伝統的な工法を守り伝えた上で屋根の強度を上げる改良案だった。この工法で7万5000枚の瓦全てを1年がかりでふき替え。災害に強い屋根に生まれ変わった。いよいよ白鷺の美しい姿をよみがえらせる「漆喰塗り」が始まる。託されたのは中田正起、当時50歳。およそ20人の左官職人のリーダーだった。中田の会社イスルギは金沢城など多くの文化財修理を手がけてきた老舗で、その実績により今回の仕事を受注。中田は漆喰塗りの腕を買われてリーダーに抜てきされたが世界遺産の修理という重圧は大きなものだった。
漆喰の塗り方を詳細に確認するため屋根に上がったとき瓦のつなぎ目を埋める「目地漆喰」という工法が全ての瓦に施されていた。中田はそこに独特の技が隠されていることに気が付いた。漆喰の端が全て5ミリほど高くなっている「灰頭」という高度な技術だった。屋根全体に施された灰頭つき目地漆喰。これこそ姫路城が白く輝く白鷺城たるゆえん。この灰頭は姫路城以外ではほとんど使われていない珍しい技でベテランの中田でも目にするのは初めてだった。その具体的な塗り方を伝える資料は残されていなかった。中田は見よう見まねで練習を始めたが何度やっても納得のいくものはできなかった。400年前から先人たちが守ってきた白鷺城。その美しい姿をこのままでは復活させることができない。重責を背負い中田は途方に暮れた。
白鷺城の屋根の模型を使って灰頭を説明。白鷺城は櫓や門全ての屋根に灰頭付き目地漆喰が施されているので、お城全体に見える。
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初めて目にする技に行き詰まった中田正起はある左官会社のことが頭に浮かんだ。それは今回の平成の大修理の受注を争ったライバル会社「山脇組」だった。昭和8年創業、小さな会社ながら昭和の大修理に参加した実績を持つ。その後も毎年行われる門や櫓などの修理をコツコツと担ってきた。そしてそうした修理を通じてあの灰頭の技を代々受け継いでいた。平成の大修理にもぜひ参加したいと手を挙げたが入札で敗れ日常的に行われる塀などの修理を続けていた。「その技をなんとか習得したい」と中田は会社を通じて山脇組に参加してもらえないかと頼んだがかなわなかった。「ならば直接教えを乞うしかない」と電話で直談判。その電話を受けたのは社長の山脇一夫は「正直なことを言うと教える理由もなければ教えたくない。でも任してもいい職人さん。それくらい熱心だった」。などと話した。数日後、一人の職人が中田のもとに送り込まれた。エース格の柴田正樹当時35歳。中田より15歳年下の職人だった。だがその技は驚くべきものだった。柴田は漆喰を瓦の上にのせるとコテを滑らせ絶妙な力加減で漆喰を押し出す。わずか5ミリの灰頭を均一に素早く作り上げた。その技は柴田にとっても特別なものだった。東京で生まれ育った柴田。小学生のとき資料集で見た城に魅了され全国を見て回った。中でも虜になったのが姫路城。創建当時の姿をとどめた壮大なスケールと美しさに感動。18歳のとき姫路城の修理をする後継者がいないことをテレビで偶然知りすぐに入社を決意。柴田は昭和の大修理を手がけた先輩から技を受け継ぎ腕を磨いてきた。しかし平成の大修理に参加することはかなわず日常的に行われる塀の修理を黙々と続けた。柴田は悔しさを押し殺し代々守り続けてきた技を中田に伝えた。手首の動かし方や力加減、さらに灰頭用に独自に改良したコテのことまで惜しむことなく秘伝の技の全てを教えた。柴田の思いを受け止めた中田は左官のリーダーとして部下たちを不安にさせないよう仕事の合間に隠れて練習した。自分が引き受けた仕事は何が何でも最後までやり遂げる。その姿勢を教えてくれたのは同じ左官職人だった3歳年上の兄、朝人。島根で生まれ育った中田は小学3年生で母を亡くし中学卒業後家計を支えるため兄の後を追って左官に。ある夜同じ現場に入った兄が帰ってこないことを心配した中田。まだ若手だった兄は未熟な技術を補うため現場に残り黙々と仕事に打ち込んでいた。1か月後、納得のいく灰頭を作れるようになった。しかしここからが本番だった。左官歴35年の中田でさえ初めて目にした高度な技。それを職人たち全員に習得させ7万5000枚の瓦を塗りきることができるのか。リーダーとして重く困難な闘いが始まった。
秘技を教えることについて柴田正樹さんは「どうしても教えて欲しいと頭下げてきたら断る理由もない。僕もたくさんの人に教えてもらって左官ができるようになってきた」などと話した。中田正起さんは「やると決めたときは、3年間、丁稚でいようと思った。15歳で初めて、35年やっててまた丁稚奉公です。じゃないとできない。途中で逃げるわけにはいかない」などと話した。
大天守の屋根に漆喰を塗り始めまで、残り半年。中田は壁の修理をする部下たちの手を止め、自分が習得した灰頭の技を見せた。当時19歳、最も若かった佐藤政太は青ざめた。中田はベテラン勢に加え、大修理をやりたいと言った若手たちを連れてきていた。漆喰塗りはすぐに乾くため短時間で一斉に行う必要がある。均一に美しく仕上げるには、全員が高いレベルで濡るようにならないといけない。1人ではなくみんなでやりきる。若手たちは自主的に練習を始め、中田も付き添った。半年、全員が灰頭の技を身につけた。2012年6月、大天守の漆喰塗りが始まったが急勾配の屋根の上では別次元の難しさがあった。急勾配での体制、足の位置など身のこなし方も習得しないとキレイな灰頭は作れない。中田も現場では初めて、若手に教える力がないことを痛感した。中田は、再び柴田の元を尋ね「若手にも教えてやってくれないだろうか」と頭を下げた。柴田正樹は身のこなしや体勢、バランスの取り方など秘訣を教えた。2013年10月、すべての漆喰を塗り終えた。こうして姫路城は真っ白に蘇った。
完成後、2人で姫路城を見たのはこのVTRが初めてだという。中田正起さんは「いくら周りの人によくできたと言われても、柴田さんが言ってくれないと。今でも感謝している。柴田さんがなにかあってお電話頂いたときに、助けてくれって言ったら、全員引き連れて行こうと今でも思っている」などと話した。柴田正樹は「僕達の気持ちも汲んでくれて仕事してもらえてたというのを聞いて、伝えられてよかったなと思う」などと話した。
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姫路城の大修理から10年、中田さんのもとで仕事をやり遂げた佐藤政太さんは、今は実家の左官会社に戻り現場のリーダーとして若手たちを率いている。山脇組には城の修理に憧れて新人が入ってきた。左官職人になったばかりの横井亜衣さん、姫路城の屋根に上がって、真っ先に教わるのは灰頭の技だった。次の大修理は40年後になる。
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エンディング映像。
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