- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 戸田実 安谷健 敷山靖洋
1972年5月15日、本土復帰を果たした沖縄。本土は高度経済成長にわく一方、厳しい生活を強いられていた。通貨はドルから円に変わり物価は高騰。さらに基地問題で不満をつのらせた住民たちが各地で抗議のデモを行っていた。1975年、国は沖縄国際海洋博覧会を開催した。本土から続々と企業がやってきてパビリオンを建設。本部町には水族館が新たに建設された。しかし展示されたのは九州や四国から運ばれた魚だった。本土が主導して行った博覧会の来場者数は目標を100万人下回った。その後、本土の企業は撤退し、商店やホテルは次々と倒産していった。海洋博不況が襲った北部の町。崖っぷちだった。その様子を忸怩たる思いで見つめるものがいた。水族館の館長の内田詮三は、静岡・福島で水族館を渡り歩き本土から沖縄に飛び込んだ。イルカの研究でも有名な水族館のレジェンドだった。内田は、沖縄ならではの魅力を発信しなければ水族館は潰れてしまうと思った。飼育員の戸田実も本土出身。心から伝えたいと思う光景があった。初めて訪れた沖縄の海。無数の魚たちが行き交ったそこは別世界だった。内田と戸田は、人々を魅了する沖縄の魚を求め、地元の漁師たちを訪ね歩いた。
1980年のある日、地元漁師から一本の電話が入った。港にすごいものが、早く来てくれと言われすぐに向かった内田は思わず「でかい」と口をついた。世界最大の魚・ジンベエザメがそこにいた。その生態は謎のベールに包まれていた。すでに死んでいたが内田は高揚した。部下を集めて、高らかに夢を語った。ジンベエザメは沖縄の宝だ、世界初の水槽の展示に挑戦する。内田は「現場で仕事をするにはクソ真面目だけじゃダメなんですよ」等と話していた。内田と戸田の熱量に感化されたサメ獲り名人の平良幸信は、一肌脱いで探し回った。体長5.1m、オスがついに網に入った。当時、水族館で一番の大きかった水槽にジンベエザメが放たれ、飼育が始まった。ところが10日後、餌を食べずに死んでしまった。戸田は死んでしまったジンベエザメを解剖し、その生態を研究し続けた。再び、ジンベエザメの飼育が始まった。ある日、自作のえさやりのホースで距離を縮め口元まで餌を運んだ。すると餌をパクパクと口にした。ジンベエザメは穏やかで人懐っこい生きものだった。さらに衝撃を受けたのは立って餌を食べたこと。内田と戸田はその姿に見とれた。しかし現状の水槽の深さは3.5mで立って尾ひれが底に当たると命を落とす危険があった。内田は唇を噛み締めた。
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- ジンベエザメ国営沖縄記念公園水族館
そんな中、願ってもない知らせが舞い込んだ。沖縄の本土復帰30周年記念事業として水族館のリニューアル案が動き出した。内田は大胆に打って出た。ジンベエザメが立って餌を食べられる世界一の巨大水槽を造る。それを任せられるのは、ザ・ムーンビーチ ミュージアムリゾートを代表作に持つ建築家の国場幸房しかいない。国場のアシスタントの安谷健は、幸房さんの作品は、沖縄の光と風を感じる建物、そこに柔らかな光が差し込んできて風が流れ込んでくる、人に優しい空間だと話す。その原点は国場の少年時代にあった。戦争で焦土と化した沖縄。国場の唯一の癒やしがヤンバルの森に差し込む木漏れ日と風だった。あの安らぎを建築に込め沖縄を蘇らせたい。国場は那覇市民体育館など、沖縄の風土と調和した公共建築を次々と手掛けてきた。水族館のリニューアルは沖縄の未来を懸けた千載一遇のチャンスだった。早速世界中の水族館を見て回ると、巨大な水槽は頑丈な柱で支えられていた。しかし、国場は安谷に、水槽の柱をなくすのはどうだろうか、というアイディアを口にした。そして自らの構想を語り始めた。安田には国内外のメーカーに巨大水槽の建設の相談を持ちかけた。しかし、口々に言われた。水圧で水槽が壊れるに決まっているだろう。柱のない、世界一の巨大水槽を造る。規格外のプロジェクトはあまりに手探りの中、幕を開けた。
美ら海水族館元飼育員の戸田実、建築家の安谷健がゲストで登場。有馬嘉男は、僕達はきょうこの水槽に感動したと話すと、戸田は大きさは見慣れた私でもすごいなと思うと話した。安谷は師匠の国場はどんな人だったか聞かれると、とても話しやすく、気軽に声をかけてくれた優しい方だったと話した。
柱のない巨大水槽の仕事は世界の水槽メーカーから断られ続けた。諦めかけたとき、話を聞きたいと返答してきた会社が香川にある町工場だった。アクリル加工の町工場の社長・敷山靖洋が沖縄にやってきた。国場は「柱を失くしたアクリルパネルで巨大水槽は出来ますか」と単刀直入に切り出した。敷山はできますと即答した。敷山の息子の靖洋は、技術が確立してから受けているわけじゃないんですよ、と明かす。敷山たちの会社は国内では大手に押され、広く知られる存在ではなかった。しかし、モントレーベイ水族館(アメリカ)など海外の水槽を手掛け、コツコツと実績を積んできた。敷山は26年前に化学メーカーを脱サラ。100万円を元手に仲間6人とアクリルの会社を立ち上げた。きっかけは地元の水族館からハマチを360度見渡せる水槽の制作を懇願されたことだった。しかし、国内では大手に押され、水槽の仕事は少なかった。何度も倒産の危機に瀕し、鮮魚店の生簀などの仕事で食いつないだ。今回は世界の大手が尻込みする巨大水槽。敷山は答えてみせると意気込んだ。その後、香川で水槽の制作が始まった。現場の指揮は息子の靖洋に任された。水槽の大きさは高さ8.2m,幅22.5m。そこに7500トンの水が入る。巨大アクリルパネルにかかる水圧は規格外だった。まず水圧に耐えるため、アクリルパネルを16枚重ね、60cm幅にし、それを接着剤で7つつなぎ合わせ巨大パネルにするという作業だった。アクリルパネルを従来は寝かせてつなげるが重量は135トン。職人とともに悩みあぐねても答えが出ない日々が続いていた。限界だと思ったときにふらりと現れた敷山が、立てたまま繋げばいいと言った。しかしそれは諸刃の剣。アクリルを寝かせて接着すればプレスする力は均等ですむが、立てて接着すれば接着剤の重力が上部と底では全く異なる。工場の職人たちは力加減を調整しながら実験を繰り返した。5年物歳月が過ぎようとしていた。
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- アメリカモントレーベイ水族館香川県
そんな中、突然靖洋が国場の事務所に呼ばれた。あるアイディアで悩んでいると打ち明けられた。自然の光が差し込む場所を下から見上げられるアクアルームという場所についてだった。靖洋は、アクアルームのデザインで悩んでいると言われたという。どう設計しても鉄骨が必要になってしまい、視界を遮ってしまう。その時、靖洋が鉄骨を失くしてアクリルだけで支えませんか?と提案した。アクアルームは鉄骨を失くし、アーチ型がのアクリルの設計の急遽変更されることとなった。いよいよ水族館にはアクリルパネルが運ばれてきた。アクリルパネルが巨大すぎて建物から出せないから、接合に失敗すれば建物を壊すしかない。プロジェクトは山場に差し掛かった。
アクアルームは海の中に潜っているような臨場感を楽しむことができる。有馬は、当初水槽を支えるために梁が出てくる設計だったが、ない方がいいとコメント。アクリル水槽の制作に関わった敷山靖洋が登場。先代の敷山哲洋について靖洋は、経営者じゃなかった、職人だったといい、その背中を見てたんでそこに対しては尊敬というか人に対しての尊敬はあったと話していた。
沖縄の光に包まえたジンベイザメが、ゆうゆうと行く姿を見上げるアクアルーム。本当に鉄骨無しでアーチ型のアクリルを制作できるのか。靖洋は苦悩していた。アクリルは曲げると厚みが数ミリ薄くなる。平らなアクリルと接合した時、その僅かな厚みの違いで段差が生じると、段差に水圧が集中し、アクリルが割れてしまう危険をはらんでいた。それを防ぐには磨いて段差をなくし、平らにしていくしかなかった。靖洋は世界屈指のアクリル加工技術を持つ職人たちを信じるしかなかった。総勢15人の職人の手作業で磨きをかけ、ミリ単位の凹凸を平らにしていった。一方、安谷は家族とともに水族館の近くに引っ越して仕事に没頭した。安谷も国場から水族館の全体の細かな設計や現場への指示を任されていた。安谷は木漏れ日と風が心地よい沖縄らしい建築を設計図に落とし込もうとしていた。建設時に出土した琉球石灰岩に着想を得て、壁面や外構に沖縄の土の記憶を刻んだ。国場が思い描いた空間をもっと心地よいものにしようと安谷は考え続けた。急な変更に現場から不満の声があがっても一歩もひかなかった。ある日、安谷が変更点を伝えに言った時、職人が面倒な素振り一つ見せず、これは良い設計だと喜んでくれた。そして工事は最大の山場を迎えた。
巨大パネルを7枚接合し、重量135トンの1枚パネルにする。靖洋が手に汗を握った。緊迫していく現場に靖洋は言った。よし行くぞ。それに続いて父は、いつも通りやれば大丈夫やと言った。大号令の元、総勢15人の職人でアクリルを立てて並べた。ついに巨大水槽が姿を表した。7500トンの海水が投入される。皆が固唾をのんで見守った。水槽が揺れる音がし、皆建物から逃げ出し始めた。しかし敷山たちは微動だにしなかった。これは水圧で水槽が固定されていく音だと確信していた。水は一滴ももれなかった。職人たちは喜びを分かち合った。ついにジンベイザメが水槽に放たれた。2002年11月1日、開館。子どもから大人までが巨大水槽に顔を寄せた。そして何度も夢に見た瞬間が訪れた。ジンベイザメが立って餌を食べる姿に皆夢中になって大歓声をあげた。20年前にジンベイザメの展示を夢に掲げた内田と戸田の念願がかなった。内田詮三は、今までにないことをやって、面白いことをやって目の色を変えてやれば何となくなることが結構あるもんですよと語っていた。水族館には沖縄言葉で美しい海を表す美ら海という名がついた。開館の翌年、水族館として日本一の入場者数を記録した。
戸田実は一番嬉しかったことを聞かれ、内田館長が夢見てて、ジンベイザメが立って食べるところをお客さんに見せるんだといって、一番の狙いは子ども、子どもが見たインパクトはすごいインパクトで残るはずで、大きくなって思い出すことがあると思う、海に関心を持ってもらう、そういうきっかけに絶対なるはずだと話していた。敷山は小さな子どもがジンベイザメだと寄っていって、その時に存在が分からなくて頭をポコンとぶつけた時にドヤ顔になると笑っていた。安谷健は、国場幸房と一緒に、観覧席の上から水槽を見ていたが、子どもたちが大水槽のところに来た時に大歓声を聞いたといい、声を聞いて幸房さんがやったね、成功したね、頑張ったねと言って握手をしてくれた思いでが嬉しかったと明かした。
今年3月で飼育30年を迎えたジンベイザメ。世界の最長飼育記録を更新し続けている。飼育員の戸田実さんは美ら海水族館を退職。ボランティアでジンベイザメの飼育方法を教えながら、世界初の繁殖を目指している。内田さんと戸田さんの思いを引き継ぎ、沖縄美ら海水族館は未知なる生物の研究を続けている。敷山靖洋さんはその後、ドバイや中国など海外から大型案件を次々と受けるようになった。社長の敷山哲洋さんは3年前に亡くなった。靖洋さんは会社を引き継ぎ、今も新しい水族館に取り組んでいる。国場幸房さんは9年前に亡くなった。沖縄の自然と調和した建築を安谷健さんが受け継いでいる。その思いは次の世代にも引き継がれている。雄大なジンベイザメがこれからも沖縄を見守り続けている。
エンディング映像。
新プロジェクトXの次回予告。
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