- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 仲義雄 小川聡子 猪股利康
有馬嘉男と森花子が「ななつ星in九州」に乗車した。乗れるのは10の客室にわずか20人。1人あたり最高185万円。こだわりは九州の魅力。室内には大川組子や酒井田柿右衛門の作品などが飾られている。九州各地を3泊4日で巡る。世界的な雑誌では3年連続世界一に選ばれた。その誕生の裏には九州の誇りと社運をかけた情熱の物語があった。
オープニング映像。
1980年代、国鉄は空前の赤字に喘いでいた。その額、1日60億円以上。債務は37兆円に達し、解体された。分割された1つJR北九州は再出発直後から存続が危ぶまれていた。山手線や東海道新幹線のようなドル箱路線はなくほぼ全てが赤字路線。車両も他の地域で使い古されたものばかりで、九州は車両の墓場と揶揄されていた。危機感をつのらせたのが営業部の唐池恒二だった。20年後の2009年、唐池は社長に就任。しかし鉄道は赤字のままだった。中国の旅行会社に商談に行ったとき、名刺を見せると「九州というのはどこですか?」と言われた。このままでは九州は廃れると思い、就任1週間後、経営幹部を集め、世界一の豪華列車を作り海外から客を呼び込むぞと伝えた。2011年、メンバー7人のプロジェクトチームが結成。旅の企画を任されたのは、仲義雄。仲たちは手がかりを求め、ヨーロッパに飛んだ。目的はロンドンからベネチアを走るオリエント急行だった。仲はオリエント急行の責任者に「世界一の豪華さはどうすれば実現できる?」と聞くと責任者は「考えるべきは単なる豪華さではない。日本の魅力だ」と言われた。帰国後、仲は旅のルートづくりのため、九州中を訪ね歩いた。ローカル運転士たちに地元に眠る情報はないか徹底的に聞き取りをおこなった。宮崎の運転士は「日向灘の朝日は絶景」だと言った。
豪華列車プロジェクトを最初に聞いた時について仲義雄は「当時、九州新幹線の開業を控えていて、このクソ忙しい時になんでこんな話をするんだろうって思ってた」などと話した。ルートづくりなどについて仲義雄は「僕は乗り物酔いが激しいので鉄道はあまり好きじゃない。鉄道が好きなメンバーに聞くと寝台列車の魅力は夕日と朝日、車窓だという。絶景は運転士が知ってるからと教えられ、日向灘の朝日が絶景だって話が出てきた」などと話した。
仲義雄は九州中を周りルートを固めていた。由布院では伝統の神楽の鑑賞。阿蘇では草原の散策。鹿児島では歴史ある庭園の見学など体験プランも作った。しかし日向灘の朝日を見ながらどんな朝食を提供するかが決まっていなかった。沿線を探し歩く中、農業が盛んな宮崎・都農町に行き当たった。1人の男が出迎えてくれた、それが猪股利康だった。仲はこの町の野菜や果物で朝食を作れないでしょうか?と頼んだ。猪股はチャンスだと思った。1年前、町を家畜の伝染病「口てい疫」が町を襲っていた。猪股は農産物が豪華列車に使われれば町に笑顔が戻るかもしれないと考えていた。仲は野菜でジュースを作りませんか?と提案。猪股はトマトを選んだ。猪股は試行錯誤を重ねたが納得いくジュースはできなかった。開発を初めて1年、試作品でいっぱいになった冷蔵庫を整理しているとき、トマトジュースが2層に分離していた。猪股はすこし前、妻の父親とお酒を飲んでいたとき、分離していたお酒を混ぜようとしたら「混ぜるな、この上澄みがおいしいんだ」と怒られた。もしかしたらと猪股はトマトジュースの上澄みを飲むと、爽やかな旨味が広がった。これまで見たことのなか黄金色のトマトジュースが生まれた。このジュースを中心にすえ、特別な朝食が完成した。ときを同じくして車両のデザインが佳境を迎えていた。担当は水戸岡鋭治。水戸岡はJR九州で数々の列車を手がけてきた。いまの自分があるのは九州のおかげ、恩返しがしたいと思っていた。水戸岡は有田焼の最高峰を求めた。十四代・酒井田柿右衛門のもとを訪れ、九州の誇りとなる列車を作りたい。器に絵を入れてほしいと頼んだ。すると柿右衛門は「1から作らせてください」と言った。柿右衛門が作ろうとしたのは洗面鉢だった。柿右衛門は全力で取り組んだが、がんが見つかった。2013年、完成した車両が公開された。洗面所の洗面鉢などが柿右衛門の遺作となった。水戸岡が病のことを知ったのは亡くなったあとのことだった。
トマトジュースについて猪股利康は「親父が結構な温度感で、大きい声で混ぜるなと言った」などと話した。仲義雄は「どちらかと言うとこだわり抜いたのは猪股さんたちのほう。僕らはもっともっとって思っていなかった。ギリギリまで考えてくれた」などと話した。ななつ星in九州の全ての接客を担うのはわずか8名の乗務員たちだった。海外からも高い評価を受けている接客。しかしその実現は一筋縄ではいかなった。
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- ななつ星in九州
2012年10月、運行開始1年前、最後の課題は乗務員の育成。集めたのは元クルーズ船の乗組員や一流ホテルのバーテンダーな接客のプロフェッショナル25名。リーダーに選ばれたのは福岡出身の小川聡子。小川はかつて航空会社のファーストクラスでも接客したキャビンアテンダントだった。鉄道の専門用語を学び、安全管理も習得。ベッドメイキングも高級旅館で学んだ。そして各地の名所も大量の資料を読み込み頭に叩き込んだ。運行開始の3か月前、本番さながらに接客を行う訓練運行が行われた。出発早々、仲は最初のおすすめはどこですか?と訊ねた。すると乗務員は立ち尽くしてしまった。訓練終了後、仲はありきたりな知識だけではダメだと地域の人に会いに行き生の声を聞こうと乗務員に言った。小川らは九州各地に飛び、地元の人達を訪ね歩いた。八女茶を作っている古賀さとこのもとを訪れ話を聞くと。古賀は土について語り出した。ただ通り過ぎる当たり前の景色、そこに息づく九州の人の想いを伝えるべきだった小川は気づいた。運行初日、ななつ星が博多駅から旅立った。小川らは乗客に1杯のジュースにかけられた手間ひまのこと、何気ない景色を守る人々のことを話すと、そのたびに乗客たちは目を輝かせて聞いてくれたという。そして、なによりも乗客が喜んだのは、地元の人たちが沿線で手を振ってくれたことだった。線路脇や畑、通過駅、あらゆるところで出迎えてくれること。小川はこの人たちこそが九州の1番の魅力だということに気づいた。その後もななつ星はルートを変えながら九州に眠る魅力を伝え続けた。そして8年後、世界有数の旅行雑誌でオリエント急行を抑え世界一に輝いた。かつて地元から背を向けられていた鉄道会社が九州の名を世界に轟かせた。
初回運行について小川聡子は「本当に奇跡をみていると思った。ずっと手を振っていてたいって思うくらい素晴らしい瞬間を体験できた」などと話した。仲義雄は「外からも中の人が手を振っているのがよく見える。一方的な愛ではなくて、お互いに振り返して、交流が生まれている。だからずっと続いている」などと話した。
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- ななつ星in九州
ななつ星が運行を開始した同じ年、宮崎・都農町には道の駅がオープンした。豪華列車で使われた食材を求めて県外からも多くの客が訪れ復興の支えとなった。現在も年間65万人が訪れている。ななつ星の運行以降、九州を訪れる人の数は年々増え続けた。何年赤字だった鉄道事業も黒字に変わった。
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