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オープニング映像。
京都市の東山区にある智積院。その3枚の桜の絵は宝物館に保存されている。大きな障壁が展示されているものの中には長谷川久蔵の描いた作品の桜図が。漂う金箔の雲の中に樹齢を重ねた桜が画面いっぱいに広がっている。久蔵の父は天才絵師の長谷川等伯。穢れを知らないみずみずしさと優しく柔らかな画風が特徴。しかしこの絵を描いた直後に久蔵は26歳の若さで亡くなった。長谷川は能登の七尾出身で、父の等伯が32歳の頃に共に京にのぼったという。しかし京の都には最強の御用絵師の狩野永徳が君臨しており、その画風は高価な金箔をあしらった作品は織田信長ら権力者を虜にしていた。一方で父の等伯は千利休などの知識自分の血遇をうけて台頭していった。永徳と等伯は激しい火花をちらし、その渦中に永徳は過労で亡くなった。等伯は時の天下人の豊臣秀吉からの命題をうけた。かつて智積院には3歳で亡くなった秀吉の愛息の鶴松の菩提寺の祥雲寺があった。等伯と久蔵はこの祥雲寺を飾る大障壁画を任されたが父と子にとって一世一代の大仕事。
出来上がったのがその桜図。満開の八重桜が描かれている。驚くのは花の描きかた。貝殻を粉末にした胡粉を膠で溶いて塗り重ねた盛り上げ胡粉を技法が400年の時を経てもその美しさを称えているのは久蔵の技量の賜物。しかし長谷川久蔵はこの作品を描いた翌年に亡くなってしまった。その桜図の傍らには等伯の楓図がある。
東京・虎ノ門にある大倉集古館は明治35年に開館した日本初の個人美術館。横山大観の描いた桜は大きな屏風画で、篝火の中で咲く満開の桜と、群青の夜空にプラチナ白の月がある松の緑青が白い花を際立たせる。枝の先につけた花は散り始めた名残の桜。横山大観には師と仰ぐ思想家の岡倉天心とともに世界に通用する日本画を生み出すために日本美術院を創設。空気や表現しようと日本画の特徴の輪郭線を捨て去った。淡い絶妙なグラデーションだったが画壇から朦朧体と批判された。横山大観は海外に趣き、インドやアメリカなどで展覧会を開催し日本がの素晴らしさを体験した。欧米での評価が高まり日本がのリーダーとして頭角をあらわしてきた。
空前絶後の展覧会がローマで開催。実現に動いたのは大蔵財閥二代目総帥の大蔵喜七郎 。現在の額で100億円もの費用を負担した。画家の選定を行った大観は竹内栖鳳など80名の画家たちの作品を客船に詰め込んでイタリアへ。会場となったのはエスポジツィオーニ宮殿。本物の美を伝えたいと大観が大事にしたのは日本画本来の観賞の仕方。宮大工や生け花の師範等と一緒にローマの宮殿に床の間に設置し作品を展示した。そしてあの夜桜が披露された。朱色の篝火に照らされりんとした桜がローマに咲き誇った。そのイベントの観覧者総数は16万6500人に。
愛知県一宮市にやってきた渡辺いっけい。三岸節子記念美術館は20歳の節子の自画像が。美術学校を卒業し入選したデビュー作。若さゆえの恐れと不安や戸惑いをもちこの時妊娠もしていたという。波乱に満ちた人生に描いたのが桜だった。
三岸節子の桜は自らの人生に喝采をおくるような出来栄え。愛した男と19歳で結婚した節子は途方にもない才能に惚れて身も心も捧げたという。夫の三岸好太郎は天才画家と呼ばれ好太郎の絵を愛し、その女性関係に苦しんで何度も死のうとしていたという。好太郎が病で31歳で亡くなった際には画家として生きていけると三人もの子を抱えて死にものぐるいで描いた。世の中は戦争に向かっていたが、時代の暗さも生活の困窮も寄せ付けず転生のカラリストの強靭な輝きのある絵を描いた。また年下画家との決闘のような恋愛も経験し傷つき分かれ絵が変化した。50代の終わりには大磯の丘に暮らし始めた。子どもたちが成長し絵に専念しようと考えた。アトリエの前には一本の山桜があり、アトリエで絵を描く日々を過ごした。69歳になった節子はフランスに移住した。年を追うごとに鮮やかさを持つ絵。84歳で大磯に戻りアトリエを前には桜があった。100号のキャンバス描いた 作品はさいたさいたさくらがさいた。93歳出歩けない体で命を削りながら描いたという。
節子はさいたさいたさくらがさいたという作品に日付けをのこしているがこれは珍しい出来事で人生の大作を描きあげたという想いが込められているという。
新美の巨人たちの次回予告。
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