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今回は小松崎茂のボックスアートを特集。
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- 小松崎茂
オープニング映像。
千葉県松戸市の郊外に昭和を満喫できる場所がある。昭和の杜博物館は昭和レトロな車や3種の神器と呼ばれた洗濯用具も。その一画に今日の作品小松崎茂ワールドが。銀の車体を煌めかせながら疾走する弾丸列車。
火を吹くプロペラエンジンが目もくらむようなスピード。彼方に浮かぶのは巨大な海上都市。輝かしい未来の情景。その一方で、刻一刻と迫る地球最期の時。つがいの動物たちをロケットにのせて、宇宙へ脱出させる計画がスタート。雑誌の口絵を飾った素晴らしき空想の世界。知恵と化学の力があれば未来は輝いている。そんな希望に満ち溢れた時代の象徴こそ、小松崎茂のイラストだった。
なぜなに学習図鑑に人間より頭がよいのか?という質問が。その回答は、イルカが陸に上ったら知恵で人間をまかしてしまうかもしれないという内容が掲載。その小松崎茂のイラストは、口にボンベをくわえたイルカガ貝の戦車をひきつれて、人間を襲ってきた。
小松崎茂は大正4年に南千住で生まれている。物心ついた10歳の頃に、昭和という時代が始まった。幼頃から画材を発揮した茂は、16歳で日本画家を目指し、堀田秀叢に弟子入り。スケッチブックを片手に、東京中を描いてまわった。時に1日30枚以上も。描くことが幸せだったという幸福な日々に陰りが。
昭和初期からは戦争の時代に突入。小松崎茂は兵器へ憧れを抱き、スケッチブックには軍艦や飛行機などの絵がどんどん増えてく。師匠に咎められても描いていたが、もっと自由に描ける場所はないかと、1935年に挿絵画家の小林秀恒に弟子入し昭和13年に挿絵画家としてデビューを果たす。その名を一気に高めたのは国防科学雑誌の機械化の図解。茂は未来兵器のイラストや、精密な図解を手がけ、兵器のイラストといえば小松崎という確たる地位を得る。戦争が終わり、焼け野原で、茂が目にしたのは進駐軍の兵士に群がり、食べ物をねだる子ども達の姿。そんな子ども達を励ましたいと考えた。そして描いたものに魅了されたのは松本零士や石ノ森章太郎。
田島照久さんも幼き日に、小松崎茂の洗礼をうけた一人。とりわけ感動したのは、画面の構成力。高度経済成長の始まりとともに、子ども達は兵器を単なる戦争の道具とはみないようになった。
科学技術がほこらしく科学技術に祈りを捧げ、純粋なメカニックとしての美しさがある。小松崎茂の弟子の伊藤展安さんは多忙を極めた当時の仕事ぶりを絵物語を描き、口絵や表紙を描いていたが弟子に手伝わすことはなかったという。しかし手を抜かないところがすごいところだったという。映像の世界でもその才能を見逃さなかった。特撮の神様円谷英二からデザインの依頼が。
映画「海底軍艦」の主役の轟天号は、地中、水中、空をも制する万能マシン。本来水圧に耐える潜水艦と、空を飛ぶロケットのようなメカニックの船体構造と設計は全く違うもの。イマジネーションを広げることがSFメカを描く面白さと話していたという。艦首にはドリル。艦尾には巨大な4枚羽。ネイビーカラーの鋼鉄色と、赤い鑑底色をつけて大好きだった海軍タッチを出せたのも良かったと話している。その造形力や描写力、空想力で無敵の小松崎ワールドに。
静岡市にあるプラモデルメーカーの老舗のタミヤへとむかった。その場所には、昭和の時代に輝いた名品、傑作のプラモデルがずらり。その中にはパンサータンクが。このボックスアートを手掛けたのが小松崎茂。プラモデルは作る工程を楽しむものだが、完成した姿を伝えるのは、パッケージ。
パンサータンクは当時商品が売れず、窮地に陥っていたタミヤが社運をかけた製品だった。小松崎茂に依頼した現会長の田宮俊作さんは、箱絵が小松崎茂の絵なら売れるに違いないと考え、依頼の手紙をしたためた。小松崎茂っはその手紙で依頼を快諾。こうしてイラストが誕生。そこに画家としての本当の思いが。
プラモデルのパンサータンクの原画は迫力満天のタンクの疾走。小松崎茂は戦車を本体よりもその周囲の名もなき兵士や、草や木などそれらがないと面白くないと語っている。この箱絵により、パンサータンクは大ヒット。タミヤが飛躍するきっかけに。
加藤夏希がプラモデル轟天号を作った。
小松崎茂はありとらゆるプラモデルの箱絵などを描いた。そこにリアリズムはかかせない。
加藤夏希がプラモデル轟天号を作り塗装をし完成させた。
小松崎茂は80歳で自宅が全勝し数万点に及ぶ原画と、資料を焼失した。筆1本あれば何度でも描くことができると生涯現役を貫いた。
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