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オープニング映像。
野見山暁治の作品は明治神宮前駅の地下通路にある。巨大なステンドグラスはいつかは会えるという作品。鮮やかで爽やかな色彩。福岡県飯塚市が故郷で、みぞえアートギャラリー 野見山暁治館は野見山の作品600店を所蔵し50点ほどを常設展示。その中にあったのは81歳のときの作品。様々な色が重なり合い、もがいているよう。
練馬区の住宅街の中に野見山暁治の自宅兼アトリエが。シンプルでモダンな外観。絨毯の階段を上がるとアトリエと一間続きのリビングがある。設計を手掛けたのは建築家の篠原一男。住宅は芸術であると、生涯住宅設計に心血を注いだ戦後を代表する建築家。野見山は篠原に体育館の小型ような家でいいと答えたが、篠原はその注文に二年も悩みながら出した答えが壁も柱もないアトリエ。その設えを野見山は野っ原のようだと喜んだ。さらにもらったそうめんの蓋までパレットにしていた。
野見山暁治は毎朝8時に起床。小鍋で牛乳を半分ほど入れた小鍋でカフェオレを作り、バゲットとサラダを少々。同じメニューを70年以上食べていた。食事が終わるとアトリエに向かっていた。それを見守っていたのが秘書であり養女の山口さん。午後は決まってイスで昼寝。101歳のときに他の才能がよかったと語っていた。
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- 日経スペシャル 私の履歴書野見山暁治
野見山は福岡県筑豊で生まれた。7人兄弟の長男として生まれた。父親は地元で名を馳せた炭鉱主で絵さえ描いていれば楽しかった子供時代。その後中学を卒業すると東京美術学校に進学し画家を目指した。しかし第二次世界大戦が発生し、戦況悪化で学生も戦場へ駆り出された。戦地で肋膜炎を患った野見山は日本へ返されて陸軍病院で終戦を迎えた。野見山の初期の代表作は故郷を描いた炭シリーズ。31歳になった野見山は本場で西洋画を学びたいとパリに私費留学。12年に及んだヨーロッパ暮らしの中で日本の新人洋画家の登竜門第2回安井賞を受賞している。そこからカタチが消えていく。
野見山暁治の見知らぬ風景と題された絵は、形なのがそうでないのか。耳よりな話というタイトルの絵は、色と形がほとばしり、ひしめき、溶け合うだけの画面。晩年、奇妙なタイトルの理由を伺うといい加減だと語っていた。書きかけの絵はとても眠れないというタイトルだった。野見山は感性の人。夕方になると、スケッチブックを手に散歩に出かけた。塊、線の交差、面白いと目が感じたものをささったと覚え書き。一日の最後は1杯の赤ワイン。
もう一つのアトリエは糸島。55歳のときに建てた別荘兼アトリエで、わたり廊下の正面に見 るのは姫島。篠原一男が設計した。野見山にとって糸島は夏から秋にかけて過ごした第二のアトリエ。そこで描いたのが今日の一枚のまぎらわしい場所。
野見山は糸島の別荘で朝起きるとおはようと挨拶。沖に浮かぶ姫島は、糸島のアトリエの大切な友達。午後の楽しみはシュノーケリングで97歳まで楽しんでいた。
アトリエのバルコニーからの眺めがお気に入りで何枚も描いたという。夕日のその姿をまぎらわしい場所とよんで描いていた。画家いわく、とらわれずに好きに見てほしいとしている。
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