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鎌倉は市街地を山が三方から囲んでいるのが低い山の連なり。この地形が、鎌倉特有の風土と文化を育んできた。やつと呼ばれる谷に禅寺がいくつも置かれている。その中に臨済宗の古刹の明月院も。都心から1時間足らずの鎌倉駅。5分も歩けば道すがらに明月院が。明月院の境内は細長く、やつの奥へと伸びていく。両側は山で、ところどころに崖もみられる独特の景観で、明月院の美しさはこの地形と匠に共存することで保たれている。参道の手前で近藤サトが気づいたのは、山からの絞り水をひいてできた小川。この水こそ、明月院の美にとって欠かせないもの。
明月院では青一色の紫陽花の花畑をみることができ、およそ2500株。透き通るような青の美しさから、明月院ブルーと称えられている。紫陽花は半日陰と湿気を好む植物で、その点、明月院のような谷は木陰が多く日照時間も短めで山からの絞り水は湿気をもたらしているという。明月院は、紫陽花にとって絶好の環境。1990年頃の明月院には青一色の現在とは異なり、色とりどりで種類も多かった。
明月院の紫陽花は色も種類も様々な紫陽花を青一色の品種に統一したのは現在の住職。ヒメアジサイとは、植物学者の牧野富太郎が昭和初期に発見し名付けた日本の紫陽花。その花の色が真っ青。以来、住職が中心となり5年以上かけて挿し木で植え替えていった。梅雨空に映える青い海原をイメージしたという。紫陽花はアルカリ性土壌なら赤みを帯びて酸性なら青みに。鎌倉の土壌は弱酸性でヒメアジサイの青がより一層キレイに見えるという。明月院ブルーは今や鎌倉の初夏の風物詩に。
明月院の石段は鎌倉石と呼ばれる、石の風情。鎌倉石はこのあたり一体の地盤を構成する砂岩の一種で柔らかく、加工しやすいために古より石塀や、石段になどに使用されてきた。すり減りやすいことに比べ水を吸収するためにコケが生えやすい。しっとりとした趣が紫陽花の青をより一層ひきたてている。近藤がやってきたのは「月笑軒」境内にある茶屋で、抹茶と和菓子をいただく。近藤は風情とともに味わった。
境内の中ほどにある本堂。明月院の歴史は栄枯盛衰の物語。始まりは、1160年に建てられた明月庵が起源。その後、鎌倉幕府の最盛期を担った北条時頼がこの地に寺を建て隠棲した。一時廃れたものの、南北朝時代に三重塔を有するほど寺院に復興し、のちに規模が縮小したが今日まで存続している。そんな歴史の痕跡が、意外なところに。
明月院のそばに崖に掘られた大きな穴はやぐらと呼ばれる墓地。およそ900年前に明月庵の創建と同じ時期に作られたという。2体の如来像と、左右の十六羅漢像は、穴をくり抜きながら浮き彫りにしたもの。山に囲まれ、平地の少ない鎌倉ではこんな岩壁を作って墓地にしていた。鎌倉石と同じ砂岩で掘りやすかった。このようなやぐらは、鎌倉全体で数百あると言われている。中でも明月院やぐらは鎌倉最大の規模。
明月院には井戸がある。鎌倉は山と海野距離が近いために水に苦労した土地。その中で美味しい水がかれずに組むことができる10本の井戸を鎌倉十井とよんで珍重した。その一つが瓶の井。水は今も利用できるほど澄んでいる。
鎌倉中に咲く花をと撮影する写真家の原田さん。明月院の魅力は様々な花が途切れることのないように1年中咲いているという。ヤマボウシやイワタバコなどがあり、シダレザクラなども美しいという。
北鎌倉の明月院はこの土地ゆえの苦難があった。大雨が降るたびに三方の山から流れ落ちる水が本堂の下をくぐり抜けて水浸しになってしまう。原因は本堂の裏手。沼地に雑木や竹が入るだけの荒んだ状態で保水力がなかった。そこで、京都の造園家の曽根三郎に相談した。現場を目にした曽根はこの谷の地形を活かさない手はないと話した。思いもかけない提案に造園プロジェクトがスタート。住職自らパワーショベルを操作し雑木を全て除去。水路を設け山からの絞り水を制御した。そんな苦労の末にできた本堂後庭園。その奥には枯山水の庭が。
近藤サトが向かったのは本堂後庭園。花菖蒲の花畑があり、6月になると満開になる。かつて苦しめられた山からの絞り水が花菖蒲を養う。その谷に降り注ぐのはヤマボウシにミヤコワスレ。
明月院の丸窓からは谷からの風景が円の中に収まる。近藤は奥行きがあり、美しいと答えた。風景は四季折々に美しく、この窓の名は悟りの窓。
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