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蕗谷虹児の故郷は新潟県新発田市。その街の中心部に彼の記念館がある。その記念館には、3000点もの原画や貴重な資料が残されている。今日の一枚は蕗谷虹児作の花嫁。建て51センチ、横34センチの絹地に岩絵具で書かれた日本画。そのあどけない面影はほんのり頬を染め、ディティールの細密さが特徴。左右にのびた羽飾りの元結。べっこうの串とかんざしは黄金の雲のようにきらめいている。角隠しには長寿と幸運を願う2羽の鶴。
蕗谷虹児は明治31年に新潟県に生まれたが両親のかけおち先で生まれている。父は19歳では母15歳。事業に失敗し、新聞記者になった父は文才のあった人だったが酒癖の悪さから新聞社を転々とし、母と子はひもじい暮らしを送った。その母が病で亡くなってしまったが虹児と二人の弟を残していた。虹児は12歳で丁稚奉公で家計を支えていた。しかし天性の才能に抜群に絵がうまく、15歳の時に意を決して上京した。同郷の日本画家の尾竹竹坡の内弟子にしてもらった。その頃の秀作は海辺で天秤棒を担ぐ女たちが、松の木陰で一休みをしている場面。師匠の尾竹竹坡から、線と色彩の大切さを説かれ修練を重ねたが17歳で新潟に戻ってしまう。絵看板を描くなどし、家計を支えていたというが18歳で樺太へ渡り、旅絵師になったという。生活費と父の借金返済のために行く先々で絵を描いて売る日々。そ一年発起して再び上京した虹児は本郷にあった菊富士ホテルを訪問。
蕗谷虹児はホテルを訪れて画家の竹久夢二の元を訪れた。幼い頃から夢二のファンだった虹児は、スケッチをみせると夢二はその場で出版社に紹介状を書いてくれ、挿絵にもらえるようになったという。その絵は大いに評判になり、瞬く間に売れっ子の挿絵画家に。その画風から抒情画という言葉が生まれ、少女たちの絵画と呼ばれる珍しいジャンルが生まれた。当時のことを振り返り、少女たちを惹きつけたその絵の特徴は、現実の女性とはかけ離れたスタイルとしている。和装や洋装の女性も顔が小さく細長いプロポーション。その原点には、浮世絵の美人画の鈴木春信の存在が。中性的で表情も物憂げな絵が特徴。その絵から影響をうけていると言われている。蕗谷虹児の名がが知れ渡ったのは花嫁人形という詩。
蕗谷虹児は大正14年にパリへ。入賞も果たし、画家としての評価を高めていった。エッセンスを吸収しながら新しい画風を掴もうと、描き続けた。しかし弟がお金に困っているとの知らせを受けて日本に返りお金を稼ぎ、そのまますぐにパリへ帰る予定だったが、帰ってこれる状況ではなくパリには帰れなかったという。再び挿絵画家に戻らざるを得なかった。しかし、パリで出会った開放的な女性やファッションを取り入れたモダンな画風は一世を風靡。その才能は日本アニメの礎となる作品にも。蕗谷虹児が手掛けた日本初のカラー短編アニメの原画から構成・演出・作詞までこなした。
昔の女性は結婚をしたら嫁ぎ先の色に染まり、妻として母として生きていかなければいけない。しかし少女時代だけはまだ、誰のものでもない自由があった。その少女たちを慰め広い世界を教え、夢を与えた。母が虹児を生んだ時も15歳の少女だった。湯屋の看板娘だったというがほっそりとした美しい人だった。新潟県の西堀通りには一家が暮らしていた場所が。花嫁人形の詩碑がある。この街の思い出を描いた絵には雪の降る橋の上で母と子がショールに包まれて支え合うように遠くを見つめている。28歳で亡くなるまでに子ども3人を産んで育てた。
蕗谷虹児の没後にアトリエの引き出しから見つかった、描きかけの原稿には遺稿が残されたという。70歳になった蕗谷虹児は若くして亡くなった母を花嫁として全ての技量をこめて描いた。
八木亜希子は今日の総括に絵をみて蕗谷虹児は母を思い浮かべていたのかもしれないと答えた。
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