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柳宗悦のプロデュース術を田辺誠一が巡る。
オープニング映像。
東京・駒場にやってきた田辺誠一。日本民藝館は1936年にたてられた美術館。斬新な建築で日本各地や海外の品々1万7000点が収蔵される。その殆どを自らの足で集めたのが柳宗悦。思想家・哲学者であり、芸術に精通したマルチな才能の持ち主。日本各地の陶磁器を集めた部屋は江戸時代に量産された瀬戸の飯碗が。民藝は多くの場合は誰が作ったのかは語られない。しかし作りての丁寧な仕事が、確かな功績をとどめている。民芸館の古屋真弓さんは柳宗悦について、美が凝縮しているものを見抜く目があったという。
柳宗悦は志が同じである民藝を広めるための活動を進めた。そして発掘した美をもとに芸術家たちを発掘していった。柳にその才能を見出された作家の作品は1931年に柳が創刊した月刊誌の工藝は、型染めによる味わいのある装丁。手掛けたのは後に人間国宝となる染織家の芹沢けい介。芹沢けい介は染の技による豊かな色彩と文様で生活を彩り人間国宝になった工芸作家。芹沢と柳の出会いは1927年。創業デザインの仕事をしていた柳の元を芹沢が訪ねた。柳の著作に感銘をうけていた芹沢。その才能を見抜いた柳だが、芹沢は、伝統の染色技法の型染めの技をみがいていった。しかし柳はそこに懸念を抱いていたがそれは形に収まりやすくなること。1939年に柳は芹沢を連れて沖縄に向かった。琉球王朝の頃かから伝わる紅型の染めの仕方を芹沢に見せるためだったが、もともと紅型に魅せられていた芹沢だが、その後に作った作品は、市場の賑を染め抜いた作品で、それまでと比べると色彩が鮮やかに。線も奔放になっていった。その地位を築いた後も芹沢は柳を終生慕い続けた。
世界的な版画家の棟方志功は板極道と称した昭和の鬼才。版画に向かうさまは鬼気迫る。1936年に柳は初めて棟方の作品を目にするが、20枚の連作の大和し美しに柳は民藝運動の仲間にバケモノが出たと電報を送った。宗像に惚れ込んだ柳は、民藝の魂を伝えていった。他力の美という柳の考えが棟方に深く根づき、やがてその才能は世界に羽ばたいていった。そんな2人の合作といえるものが心偈頌 今日モアリ オホケナクモ。の短文の区を、棟方が版画にした。
1889年に海軍将校の三男として東京・麻布に生まれた柳宗悦。21歳で友人たちと雑誌「白樺」を創刊し西洋美術を紹介し、その目利きの才能を表した。そして、近代彫刻の巨匠のロダンと交流をもったことが、のちの人生を大きく変化させる。ある日、ロダンの彫刻がみたいと日本統治化の朝鮮から柳を訪ねてきた人がいた。18世紀前半につくられた朝鮮の陶磁器は染付秋草文面取壺。ごすと呼ばれる青色の顔料で絵付けした白磁で、柳は一目みるやその小さな壺の虜に。それから柳は何度も朝鮮を訪れて無名の職人が作った作品を収集していた。その過程で陶芸家の濱田庄司ら巨匠たちと意気投合。1925年には全く新しい美の概念の民藝という言葉を生み出した。
柳は各地を訪れてまだみぬ美を発掘するのがライフワークになっていった。青森のこぎん衣装や秋田の蓑。マタギがかぶる帽子などに着目し見出した。
兵庫県・丹波市はかつて織物の産地だった。しかし、明治から大正にかけて工業化や、安価な木綿の普及でほとんど廃れていた。1920年代には京都の朝市で偶然その布をみつけた柳は、心を惹かれたという。
柳が心惹かれた布は丹波布として製造されている。特徴は手紡ぎ、草木染め、手織り。柳はその美しい織物を丹波布と名付け雑誌や展覧会で紹介。その後押しで丹波布は再評価され、復活を遂げた。職人の大谷さんにとって柳は特別な存在だという。見出したものは丹波布夜具地。ポツポツと手紡ぎの白い毛玉が顔を覗かせる温かみのある風合い。国の無形文化財に指定されている。
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民藝のブームに鞍田さんは生活の利便性が加速する中でその中で物足りなさを埋めようとする動きが民藝に向き、愛おしさとなっているとした。
大分県・日田市に300年続く小鹿田焼がある。地元の土を臼で細かく砕いて2カ月かけて陶芸の土にする。道具も手作りで、花びらをおもわせる模様をつける打ち刷毛目や、かんなをバウンドさせる飛びかんななど、手間暇をかけた技法で知られている。1931年に小鹿田の集落にたどり着いた柳はその佇まいに惚れ込み、小鹿田焼を世界一の民陶として惚れ込み全国に魅力を伝えた。
小鹿田焼は2023年にNew BalanceのコンセプトストアのT-HOUSE New Balanceとコラボレーションした。
次回の「新美の巨人たち」の番組宣伝。
「スポーツ リアライブ~SPORTS Real&Live~」の番組宣伝。「プロ野球 劇的展開のドラマ」など。