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京都・嵐山にやってきた本上まなみ。嵐山は渡月橋周辺後名や桂川の西岸にそびえる山の名前だという。世界遺産の天龍寺は室町時代に足利高氏が創建し京都屈指の格式を持つ臨済宗の禅寺。天龍寺を訪れたらみたいものは法堂にある、直径9mの円に描かれた龍の姿は日本画家の加山又造の大作。この龍はどこでも目があう不思議な絵。
本堂にあたる方丈には国の特別名勝・史跡は曹源池庭園。面積は1200坪あり、その庭園には大きな池がある。大小の庭石があり背丈や緑の色が異なる樹木が空気に一体感がある。庭園に詳しい鳥賀陽百合さんは、物語を作るように作られていると語った。向こう岸のこんもりとした石雲には滝を表現している。鯉を表す石があり、登竜門は急流をのぼりきった鯉は竜になるという中国の故事。この庭は修行のために作られているというが、修行僧が悟りを開くように鯉でも登れない滝を頑張って登り、修行を頑張ってほしいという意味合いがあるという。僧たちはえんがわんで坐禅をくんで修行を行っている。座った位置から石組みが目に入るように計算されている。そんな曹源池庭園は誰が作ったのか?
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- 曹源池庭園
禅僧・作庭家の夢窓疎石は位の高い僧侶にして作庭家でもあった。夢窓疎石が住職と勤めた西芳寺は、苔寺とも称される緑に覆われた境内。自然の風景をあらわした、日本最初の枯山水庭園を自ら作り上げた。そのすべてに込められたのは仏の教えで、曹源池庭園にはお釈迦様と従う菩薩を石組みで表したとされる釈迦三尊石は極楽浄土の世界を3Dで表したかったとされる。優雅にカーブを描く水際は、貴族の文化荒々しくおかれた石組みは武士の文化を。それはまさに天龍寺そのものの歴史。室町時代を開いた初代将軍の足利尊氏はその当時、後醍醐天皇と派遣をめぐって激しく対立していた。後醍醐天皇天皇崩御のうちに、尊氏が帰依していた夢窓疎石はその御霊を弔うために天龍寺の建立を進言した。
天龍寺の曹源池庭園は、貴族と武士の文化の融合の象徴になった。そんな庭に夢窓疎石は嵐山を見上げる風景を借景として取り入れた。池の畔に佇めば庭の木々が山野稜線にとけあい、大自然に抱かれているよう。春夏秋冬うつりかわる嵐山の心をつなぎ静かに自分を磨き続ける。そんな庭の歴史を物語る一枚の絵図がある。天龍寺の境内図の応永釣命絵図は渡月橋や桂川にいたるまでそのすべてが天龍寺だったことがわかる。火災や幕末の混乱で今の敷地になる前は、その10倍の広さがある巨大寺院だった。曹源池庭園の借景あ栄華を極めた当時の面影を今に伝えている。
かつて平安貴族たちの心を癒やした竹林の風景の竹林の小径は10分ほど歩くと、大河内山荘庭園が。ここは曹源池庭園の近くにあり桂川や嵐山がそびえる。雄大な嵐山の借景が広がっている。
小倉山の斜面に広がるのは大河内山荘庭園。山道を登っていくと突然大きく開けた庭園が。大乗閣 は国の登録有形文化財で、庭の様々な建築様式を組み合わせた斬新な建物に。
大河内山荘庭園は銀幕の大スターの大河内伝次郎の写真が。丹下左膳シリーズの豪快な太刀さばきで一斉を風靡し、多くの作品に登場した。しかし、太秦での撮影終えると繁華街に繰り出すこともなく1人静かに山荘に戻り、庭造りに励んでいたというが静かな人だったという。稼いだ金の大半を注ぎ込み30年かけて庭造りを行ったという。大河内山荘庭園は山の斜面につくられたいくつもの庭を巡る回遊式庭園。木々が立ち並ぶ静かな庭は歩きながら苔むす光景に自然と目を向かわせる工夫がされている。近くには茶室があり、清涼感で満ちた光景に。
そしてこの先には大河内伝次郎が庭園を作ろうと思いたる所以の場所があった。白砂に松の緑がはえる枯山水の庭があり、その近くに小さなお堂。中には御仏が祀られた小さな空間があり、伝次郎は静かに祈りを捧げていたという。1923年には関東大震災で被災し、悲惨な状況を目の当たりに。鎮魂のために小倉山に土地を購入し念願だったお堂を建てた。開拓しながら庭園を広げていった。嵐山の借景は庭造りにはかかせない。
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