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今回は知花くららが土浦亀城邸を巡る。
オープニング映像。
東京・青山に知花くららがやってきた。東京メトロ青山一丁目駅からすぐの場所にある土浦亀城邸は小さな白い家は土浦亀城邸。昭和10年に竣工され、東京都の有形文化財にも指定されている。当時庶民が暮らしていたのは瓦葺きの日本家屋がほとんどだった。
土浦亀城邸は繊細な直線で構成された玄関。短い階段を上がって一階のリビングへ。この家を象徴するのが高さ4m、幅3mの大きな窓。ダイニングとリビンの間には仕切りがなく、天井の高低差で、変化をつけている。そしてギャラリーと名付けられた中2階は3畳ほど。更に数段上がった2階には寝室が。この家は短い階段で4つのフロアを繋いだ構造に。20坪ほどの狭小住宅だが、巧みな設計によって開放的な生活空間を生み出している。寝室には昭和10年の住宅とは思えない、壁一面の収納が。中には今も家の主の洋服が収納されている。作り付けのドレッサーやなどコンパクトで実用的。家の一番下の半地下のスペースには、バスルームが。天窓から日光を取り込む、タイル張りの浴室。シャワーもついている。畳の部屋でちゃぶ台を囲み過ごしていた日本人にとって、この家の設えは、まさに未来の暮らし。
東京・池袋に自由学園明日館がある。大正10年に女学校の校舎として竣工。重要文化財となり、今は結婚式や、コンサートなどに利用されている。設計したのは20世紀を代表とする建築家のフランク・ロイド・ライト。旧帝国ホテルなどを手掛け、日本に欧米の建築思想を根付かせた。土浦亀城は旧帝国ホテルの設計図を描くスタッフとして雇われたが、その腕前をライトに見込まれて弟子になったという。自由学園明日館と土浦亀城邸は開放感を演出する設計。また階段の設計など、土浦は自身の自宅にフランク・ロイド・ライトの精神を引き継いだ構造に家を建築した。茨城県水戸市で生まれた土浦亀城は、大学を卒業しライトの誘いで妻とともに渡米し3年間、修行した。その時期はコンクリートや鉄骨、ガラスという、当時の新素材を使用し、機能性を高めた建築が世界各地に生まれていた。大 きな窓や開放的な空間は、コレラなどの感染症を防ぐために風通しや採光を重視した結果だった。ライトの現場は、そんな最新の建築を学ぼうと世界各地から才能が集う梁山泊だった。
帰国後に土浦は数々の斬新な建築を手掛けていく。昭和10年にまだ木造家屋が密集していた東京・品川の1角に家を建てた。自宅のまわりに、画家や実業家の友人たちの家を建築し4棟の実験住宅で時代を先取りする暮らしを始めた。その中の一件こそが今も唯一残っている土浦亀城設計の家。
昭和のはじめに建てられた住宅の傑作の土浦亀城邸。日本の台所の多くが土間の炊事場で煮炊きをしていた時代に、この家のキッチンは驚くべき機能と美しさがあった。建築史研究家の田中さんは土浦亀城・信子夫妻の元を何度も訪ねて話を聞いていた。キッチンには引っ張り出せる台がついていてまな板になっている。肉や魚、野菜など使い分けられるように、4枚ある。棚も食器の大きさや種類によって、奥行きが高さをかえて収納がしやすいように。家事をする人の目線を取り入れた細やかな作りに。妻の信子が設計に加わっていたためでもあるという。更にお手伝いの部屋があり、アイロン台の形に壁をくり抜いた折りたたみ式アイロン台がある。雑誌でその快適さを語っていた。妻の信子は夫と机と並べライトから直に建築を学んでいたという。その信子の父は民主主義の大切さを唱えた政治学者の吉野作造。そんな父のもとで育った信子はアメリカでの豊かな暮らしが日本女性にも必要だと考えた。帰国後に多くの住宅を精力的に手掛け、いくつかの賞も受賞したしかし建築家にはなれなかったというが当時はまだ女性には参政権はなく、仕事もない時代だったためだという。
夫の亀城は家をベースに数々の建物を設計していった。 2024年には土浦亀城邸は青山に移築された。その解体で現れた木の構造に、日本人の暮らしを変えたいという夫婦の重いが浮かび上がった。日本の伝統的な木造の大工の技術を使えると庶民にも建てられるモダニズム住宅を目指していたという。亀城はあの丹下健三などの多くの建築家影響を与えた。
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