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オープニング映像。
群馬県みどり市は星野富弘のふるさと。そこに富弘美術館があり白を基調としたフラットな平屋建て。上から見ると丸い形が寄り添うようになっている。星野さんが亡くなって2年。来館者はすでに700万人を超えると言われている。北関東屈指の美術館で、初期のものから晩年のものまでの60点が展示される。描き始めた頃の作品では、サインペンとカラーマーカーを使って、茎のたくましさや花びらの一つ一つ、おしべやめしべまで刻銘に捉えた。添えられた詩は「私の首のように 茎が簡単に折れてしまった しかし菜の花はそこから芽を出し 花を咲かせた 私もこの花と同じ水を飲んでいる 同じ光を受けている 強い茎になろう」としたためた。角のないふっくらとした独特の文字が、絶妙な間合いで詩を紡いでいく。鼻の姿はありのままに。自分の中で絵と言葉が完全に一体となり、美しい詩画の世界を作り上げている。
1946年に群馬県みどり市東町の旧東村で生まれた星野富弘。家は山間の農家で裕福ではなかったが、学校から帰れば駆け回る体力のある少年だった。中学では陸上部に入部し、県大会で優勝するほどの力を発揮。高校では登山に熱中し、大学では体育を専攻し高崎市の中学校の体育教師になった。その矢先に、放課後の体育館で生徒たちに見せようと宙返りした時に頭部から誤って頭部より転落。入院時には四肢が完全麻痺してしまい脊髄損傷という診断結果に。生死をさまよった期間は母に介助してもらいながらようやく食事もとれるように。
富弘美術館の展示室には寄せ書きが描かれた帽子が展示されていた。これは星野が文字を書くきっかけになったもので、入院時に同室だった中学生の高久くんが転院する日のこと。文字を書いて彼を励ましてほしいとお願いされ、星野も彼を励ましたいと言葉をのせたが、母に口にサインペンをくわえさせて書いたという。そこから文字が書きたいと感じた星野はスケッチブックに口で線を書く練習を始めた。最初の文字はカタカナの「ア」だった。黒い糸くずのような文字が増えていき、ようやく手紙もかけるように。1枚を描くのに一ヶ月かかった。それに花の絵を添えるようになり、サインペンとカラーマーカーで病室がアトリエとなった。星野富弘は絵の勉強をしたことも、詩を描いたこともなかったが、献身的に支えたのは母。
水彩絵の具を使うようになると色の調合をする。母は筆ペンを口にくわえさせて色が違うと怒鳴っても献身的だったという。また辛く当たったこともあったが、母に捧げたペンペン草は、もし腕が動いたら母の肩を叩きたいなどと綴った。
書き溜めていた60点のもの絵。その年に初めて個展が開催したが多くの反響を呼んだ。世代を超えて愛され、富弘美術館ができ、そして2005年に新たな富弘美術館が誕生した。
富弘美術館の設計案の中から選ばれたものは新進気鋭の建築家のもので、一番驚いたのは星野だった。担当したのは当時若手建築家だったヨコミゾマコト。日頃目に止めないような雑草や植物に焦点を当てていて、それをできるだけ自然の形で置き換えようと円形をモチーフにした形に。
星野富弘の大作のカントリーロードは建て21センチで横60センチ。構想に2年をかけて作ったもの。色づく田畑、石垣に囲まれた家々にふるさとに秋の気配がきたとふるさとの愛着と感謝を綴った363文字の最後の一行は生きているって、おもしろいと思う。この独特の円形を活かした富弘美術館で、8月に新たな展示方法を取り入れたエリアがある。
星野富弘が35歳の時妻の昌子さんと結婚した。2人の馴れ初めは知人の紹介で昌子さんが病院を訪ねてきたこと。ユーモア溢れる話に馬が合うと思った昌子さんは、病院に足繁く通うようになり交際に発展。周囲の心配の声や反対する声もあったが、それでも星野からプロポーズされ、昌子さんは結婚指輪はいらないと答えたという。以来43年間夫を支えてきた。
昌子さんは当時夫の星野富弘が口で絵を描いていた時にサポートしていたが、今回はショウカイドウをモチーフに再現を行った。昌子さんはモチーフに対し様々な色を提案。星野富弘がそれに水で調合してほしいなどとイメージを伝えると色を作り続けていた。星野富弘の母・知野さんは2018年に97歳で逝去した。星野富弘の登山靴の絵は、人生を振り返った1枚。人生の放課後と題されている。
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