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オープニング映像。地域で100年近く続く時計店。2011年3月の東京電力・福島第一原子力発電所の事故で住民は離れ離れに。時計店も地域から姿を消した。店主の原田雄一さん。時計店があったのは福島・浪江町。当時の住民の9割が今も町外で暮らしている。原田雄一さんは原発事故以来、各地に散り散りになった仲間の元を訪ね続けている。
福島第一原発から約60km離れた二本松市。原発事故で避難した人たちのために県が整備した新たな住宅地。沿岸部の自治体などから来た約260人が暮らしている。浪江町にあった原田時計店はここで再開し、今年で9年目。原田雄一さんはこの店の3代目。時計店だが、扱うものはメガネやカメラ、補聴器など。客の要望に応じて商品を増やしてきた。客は浪江町に店があった頃からの馴染みの客ばかり。去年、創業100年となった原田時計店。その節目は故郷・浪江町で迎えるはずだった。
浪江町は海と山に囲まれた自然豊かな土地だった。時計店があった新町商店街で年に1度開かれる十日市は300ほどの露店が立ち並び、町の内外から人が押し寄せた。2011年3月の福島第一原発の事故で全域に避難指示が出され、2万1000人余りの全住民が故郷を離れることを余儀なくされた。6年後には町の中心部で避難指示が解除されたが、今も面積の約8割が帰還困難区域のまま。町に暮らす人は事故前の1割余りにとどまっている。
原田さんは毎週火曜日に各地のお客さんの元を訪れ、メガネや補聴器のメンテナンスを行っている。この日はまずいわき市の吉田信雄さんの元を訪ねた。原田さんは吉田さんの補聴器の汚れをとって聴こえるように直した。料金は補聴器の手入れと電池交換を合わせて2000円とのこと。採算は取れないが原田さんは「商品を勧めたら最後まで責任を持ちたいのは人間として当然」などと話した。
原田さんは葛尾村に住む半澤富二雄さんの元を訪ねた。半澤さんは原発事故後にいち早く村に戻ったというが、半澤さんの妻を含め集落の大半の人は村に戻っていないとのこと。半澤さんは「震災から15年経ってみんな生活が安定して村に来なくなった。地区の良さを伝えたいけどなかなか難しい」などと話した。
福島・浪江には明治~大正に鉄道が敷かれ、木材の供給地として発展した。原田さんの祖父の雄順さんはこの時代に店を開いた。その後親子3代にわたって店を守り続けてきた。時計店のある浪江の新町商店街は昭和40年頃から栄え、隣の双葉町と大熊町での原発建設もあって多くの人で賑わった。原田さんは時計店の事業を拡大し、年間売上は2億円を突破。雑誌にも掲載された。また原田さんは地域活性化の先頭にも立ち、数多くのイベントを企画した。原田さんは「原発が危険とは言われていたが自分の生きてる間は大丈夫だと思っていた」などと話した。
今の新町商店街。浪江の近くに来た時、原田さんには立ち寄る場所がある。かつて「原田時計店」があった跡地。店は解体したが、未だ住宅部分は残したまま。この日は妻・アキイさんと共に家の片付け。この家を残しているのは避難先の高齢者施設で暮らす母親を思ってのこと。アキイさんは「義母が(家を)そのままにしておいてっていう気持ちも半分分かる。でも私としては『絶対に帰れないよ』って気持ちも言いたいけどもそれは言えない。悲しいけどしょうがない。本当に行ったり来たりの気持ちが交差している」と話した。
新たな街作りが進む浪江。駅を中心に商業施設や交流施設を整備し賑わいを再生させようとしている。更に浪江町を含む沿岸部では最新技術を使って新たな産業基盤作りを目指す国家プロジェクトが進められている。実は原田さんには自らが思い描いた復興の姿があった。原発事故の半年後には原田さんら商店街の人たちが中心となって避難先の二本松で名物行事・十日市を開催。街作りについても住民の先頭に立つようになった。帰還の目処が示されない中、それぞれの場所で避難生活を続けていた人たち。原田さんは浪江の人たちが暮らせる地区が作れればいつの日か一緒に故郷に帰れるのではないかと考えた。一方で世帯ごとに賠償金が支払われたこともあり、住民それぞれの生活再建が進んだ。原田さんの願った計画は実現することはなかった。早稲田大学・佐藤名誉教授は「仮の町をつくってそこにみんなでまとまって住もうって非常に盛り上がった時期がある。ただ、現実に動き出したら多分なかなか難しかったと思う。個人の生活再建を急がなくちゃならない。だからそれを待てる人と待てない人が出てくる。新しい生活の基盤をそれぞれの人が作っていくという段階に移っていった」と話した。
原田さんの時計店にも大きな変化があった。4代目として店を継ぐ予定だった義理の息子が浪江ではなく茨城に店を構えた。人がまだ戻っていない町では難しいという判断からだった。去年から新たに始めたことがある。時計店の仕事とは別に知り合いのもとを回り15年の体験や思いを聞き取ること。「どんどん新しい町づくりをして頑張っていこうっていうのは分かるが、その裏には帰りたくても帰れなかった人がいたんだっていうのは忘れないでほしいなと思う」と話した。
原田さんは千葉県で首都圏各地に避難した人たちを取りまとめてきた、森川さんの元を訪れた。森川さんは千葉で働いていた息子の元に避難し、そのままここで暮らしている。森川さんは原発事故の4年後“ともにいきる会”という団体を立ち上げた。地元の住民との距離は縮まる一方、森川さんは避難者同士の結びつきが時間と共に弱まってきたのを感じているという。翌日は月に1度のともにいきる会の開催日。手芸品を販売し、お茶会をするのがお決まりだという。かつて50人ほどいた仲間は年々減り続け、今集まるのは10人ほど。
原田さんはこの日も浪江に立ち寄った。以前は30軒を超えていた店も今再開しているのは5軒。商店会は4月に解散することを決めた。呉服店は「だんだん歯抜けになっていく状態を目の当たりにすると本当に寂しいですね。我々もこれからどうしたらいいか分からない。金は無くなってくる」と話した。一方で浪江の町に戻った人は「いろんな方の出会いもありましたし、仕事関係でつながる業者さんもすごく増えたんで、今のところ前向きに何かはやっていけるだろうっていうことでやっています。だから今までの感覚はもうまるっきり変えようと。震災前の感覚でやっていては無理だっていうことは分かった」と話した。
1月末、二本松に避難した浪江の人たちが集う月に一度のお茶会が開かれていた。毎回最後に歌われるのは原発事故後に作られた浪江の歌。町民は「浪江の歌はもう歌うたび聞くたびに涙をボロボロ流していたのみんなで。でも今は涙は出てこない。もう諦めているからかな」と話した。
先月、浪江では町のシンボルの桜並木の手入れが行われていた。30年前に原田さんが始めた取り組み。原発事故で一度は途絶えたが、新しい住民も加わり、春の景色を守り続けている。原田さんは「ふっと上を見ていて、この15年の震災があったのかな?って。みんなが住んでるみたいな。上だけ見ているとそんな気持ちになってきました。こんなの初めてですね」と話した。
エンディング映像。
