- 出演者
- 池上彰 具志堅用高
オープニング映像。
今回、79年放送の「NHK特集 わが沖縄 ~具志堅用高とその一族~」を再放送。沖縄出身で初のボクシング世界チャンピオンとなった具志堅と、その一族の琉球王国から続く歴史を紐解いた番組。スタジオゲストは具志堅用高。当時24歳。
沖縄出身の世界ジュニアフライ級チャンピオン・具志堅用高。チャンピオンとなったあと、地元・沖縄の石垣島に家を新築。かつて、母親から渡された4万円だけを手に上京した具志堅。世界タイトルを手にしてからの3年間、3億円近いファイトマネーを稼いだ。地元からの応援も大きかったという。
沖縄出身の世界ジュニアフライ級チャンピオン・具志堅用高。生まれは沖縄北部の本部町。一族の墓もここにあり、清明祭が行われると全国から一族が集まる。この年の清明祭は具志堅の8度目の防衛戦の日と重なり、勝利を祈る催しなどが行われた。
沖縄出身の世界ジュニアフライ級チャンピオン・具志堅用高。名前はおじ・用高に由来。その祖父が沖縄に入植したのは明治12年。この年、琉球王朝が終わり沖縄県が誕生。旧王朝に仕えていた具志堅一族はこの時没落し、各地に散っていった。明治31年、沖縄にも徴兵令が敷かれた。用高(おじ)は明治44年に入隊。当時は標準語を知らなかったが、銃剣の腕は連帯随一だった。
沖縄出身のボクシング世界チャンピオン・具志堅用高。その一族が沖縄・本部町に移住して100年。昭和14年、南洋群島にこの一族など沖縄出身者が多く移住。そのほとんどは漁師として働いた。稼ぎは当時の沖縄県知事を超えるほどだった。
沖縄出身のボクシング世界チャンピオン・具志堅用高。沖縄が本土に復帰した2年後の昭和49年に上京。高校ボクシングで優勝しオリンピック候補として進学を勧められていたが、「金メダルよりカネ」とプロ入りを説得され協栄ジムに所属。母・ツネは沖縄近くの久高島出身。父・用敬は沖縄・本部町出身。小学校を出て岐阜の工場で働き、戦後故郷へ戻りカツオ漁師に。ツネとは出稼ぎで結ばれた仲。
沖縄出身のボクシング世界チャンピオン・具志堅用高。一族は200家族・1500人いるが、戦死者も少なくない。
沖縄出身のボクシング世界チャンピオン・具志堅用高。その故郷・沖縄では6月23日が慰霊の日。具志堅一族でも4分の1が戦死者に。7月29日、9度目の防衛戦が小倉で行われた。対するは世界ランク1位のペドロサ。一族も集まりテレビで試合観戦。具志堅が勝利するも、ノックアウトはできず。
沖縄出身のボクシング世界チャンピオン・具志堅用高。所属する協栄ジムには、第二・第三の具志堅を目指す沖縄出身の選手が複数いる。敗戦後、各地にいた具志堅一族は故郷・崎原に戻った。直後、土地は米軍に接収され、入植以来85年・3代にわたって生きてきた故郷は廃村に。このころ海洋博も行われ、一族の象徴だった墓を移転させる話もあったという。
沖縄出身のボクシング世界チャンピオン・具志堅用高。10度目のタイトル防衛戦に挑んでいたころ、同姓同名の親族・用高が米寿の祝を迎えた。崎原から初めて本土に渡り、戦争、戦後の廃村などを経験してきた人物。具志堅にとって支えになっているのは「ないちゃー(本土人)には負けられない」という信念。
ここまで、79年放送の「NHK特集 わが沖縄 ~具志堅用高とその一族~」を再放送。具志堅本人が印象的だったのは、かつて徴兵され戦った叔父・用高爺。「すごい一族にいたことを誇りに思う」など話した。試合には「沖縄を背負っている」という思いで臨んでいたそう。チャンピオンとなった直後の帰郷時、街の人から大歓迎を受けたそう。有名になったあともインタビューに答える際などは沖縄の方言を多用。このことから、沖縄出身者から感謝されることが多かったという。
沖縄出身の具志堅用高がチャンピオンになる前から通う、東京・高円寺にある沖縄料理点。石垣島出身の店主のもと、多くの沖縄出身者が集まった。具志堅さんの活躍で店は大いに盛り上がったという。2代目店主は東京出身だが、沖縄の伝統文化を伝える活動をしている。
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