- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
22年、クフ王のピラミッドで未知の空間が発見され、人工知能はナスカで新たな地上絵を500以上も見つけた。今年、日本では大仙陵古墳から出土品が見つかり、初の科学調査が行われた。
オープニング映像。
「鎌倉殿の13人」に出演していた佐藤二朗は源頼朝の屋敷付近で謎の寺院が見つかったというニュースに関心があるという。25年7月、長野県の民家から江戸時代前期の巻物が見つかり、武士のためのレシピ本だったことが判明。
昨年、奈良時代の大嘗祭にまつわる木簡が平城京跡で見つかった。大嘗祭では新米をはじめ、様々な食べ物が神に捧げられる。それらを神と新たな天皇が食し、五穀豊穣、国家の安寧を願う。木簡の内容によると、聖武天皇が即位した大嘗祭を示しているという。
大河ドラマ「光る君へ」で柄本佑が藤原道長を演じたが、23年12月、発見された写経が道長の直筆と判明した。道長は金峯山寺のさらに奥にある大峰山を登攀し、娘である彰子と一条天皇の間に子どもが生まれることを祈念。山頂で写経を筒に収めて埋めたという記録もある。翌年、彰子は子どもを出産した。
大仙古墳の出土品が最先端の技術で作られていたことがわかった。刀子という小型ナイフが鞘におさめられた状態で科学調査を行ったといい、鋲には柔らかくて加工には向かない銀を使っていた。深澤太郎氏は「5世紀半ばでこのようなものは唯一無二」と驚いたという。なお、刀子が見つかったのは前方後円墳の前方部で、複数の人物が眠っている可能性がある。
25年3月、武田信玄の菩提寺である恵林寺から、信玄の恋の歌が見つかった。風にそよぎ、草の露が消えてしまうほど短い時間でも私たちの愛は消えないことを詠っているという。歌の相手は女性とは限らず、家臣の男性だったのかもしれない。
織田信長が亡くなり、豊臣秀吉が織田家の実質的リーダーとなった。だが、信長の子どもである信雄が反発し、徳川家康を味方につけた。「小牧・長久手の戦い」で秀吉は重臣を何人も失うも、家康が秀吉との講話に応じて臣下の礼をとった。24年8月、長野・須坂市にある旧家から戦いの内幕がわかる書状が見つかった。豊臣秀吉、弟の秀長の戦略が見えるという。
琵琶湖の西岸に明智光秀の坂本城が築かれていたとされるが、痕跡はほとんどなく、絵図もなかった。だが、25年2月、宅地造成の工事中に石垣が見つかった。現地説明会には2日間で2400人が参加した。坂本城は京都から10kmほどで、朝廷や将軍に駆けつけるべく、軍事的要衝とも言えた。だが、築城から11年後、光秀は本能寺の変を起こす。秀吉に敗れた後、城は焼かれて取り壊された。発掘調査では磁器、陶器、鉄製のネジなどが見つかっている。ネジは南蛮貿易を通じて伝来した可能性があり、城は商人が出入りして賑わっていたと考えられる。琵琶湖の水運と陸路を結ぶ港があり、街道の整備も始まっていたという。
武田信玄は正室以外に何人もの側室がいた上、男性との恋愛関係もあった。恋人に浮気を弁解する手紙も残っている。また、VTRに登場した書状が見つかった旧家は江戸時代、藩主が足を運ぶほどだったという。
松山藩の藩祖だった松平定勝は徳川家康の異父兄弟。25年5月、藩主伝来の品が愛媛県に寄贈された。また、23年12月、江戸時代に勝海舟が創設に携わった海軍操練所の遺構が神戸の中心地で初めて確認された。操練所は1年で閉鎖されたが、3年後に神戸港として開港。明治時代には海外の船が多く行き交った。
23年、熊本藩から薩摩藩へ送り込まれたスパイの書状が見つかった。潜入調査で入手した極秘情報が記されている。江戸時代初期、徳川幕府にとっての脅威が島津家で、軍事力を維持していた。幕府は熊本藩を徳川と近い細川忠利に任せ、薩摩藩の抑えと情報収集を期待されていた。密偵を任されたのは地侍の村田門左衛門。暮らしていた葦北は島津家が参勤交代で江戸に向かうルート上にあり、島津家の人々と縁があった。河合敦氏は「江戸時代というと、平和が続いて平穏に暮らしていたように見えるが、人知れず動いていた人が平和を守ったと言えるかもしれないという発見」と語った。
「大河ドラマ べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の番組宣伝をした。
