- 出演者
- 福澤朗 今田耕司 菅井友香
オープニング映像。
今回は、福島県石川町から。依頼人の鈴木さんは、黒毛和牛の肥育農家。牛舎は標高550メートルの山の中にあり、気温が低く、夏でも快適。飼料は、厳選素材を配合し、水は、阿武隈川水系の天然水を使用している。2010年には400頭を数えるまでになったが、東日本大震災で被災。当時は、佐賀県から稲わらを運んでもらうなど全国から支援を受けたという。鈴木さんが売りたいお宝は、三十数年前からこつこつ集めてきたもの。去年の能登半島地震のニュースを見て、お宝を売り、そのお金を能登半島に寄付したいという。
鈴木さんのお宝は、斎藤清の版画5点。鈴木さんは、三十数年前に福島県柳津町で、斎藤清と会い、話をしてから好きになり、1枚30~35万円ほどで購入したという。北海道の牛がいる景色を描いたものや、会津の冬の景色を描いたものなどがある。
戦後最も愛された版画家との異名を持つ斎藤清。1907年に会津坂下町で生まれるが父の事業が失敗し北海道にわたり、母・ルイも亡くなってしまう。唯一の慰めが絵を描く事となった24歳の時に上京し、独学で油彩画を描き続けた。転機となったのは29歳のときで、安井曾太郎の版画を目にすると衝撃を受けて自らも版画の道を志す。初歩的な技法も知らない中で描かれた「少女」は純真な姿を描いた作品となっている。1937年に26年ぶりに会津を訪れると、厳しい自然の科目な美しさに惹かれこの風景を版画で表現することを志した。あらゆる技法に挑みエッチング技法を取り入れた「瞳(白椿)」や、油絵のような質感の「ミルク」、新印象派の点描を彷彿とさせる「港、小樽」などを生み出した。サンパウロ・ビエンナーレ展に出品した「凝視(花)」は少女の顔を花と合わせるという大胆な作品で、あえて顔に木目を出した斬新な作品で日本人賞を獲得。かつては1枚16ドル程という評価額はマンハッタンのギャラリーで1500ドルもの評価額に変わっていった。「画は構図との戦いダベ」と口にしてきた斎藤は余計なものを一切描かず色彩を最小限に抑ながらも新たな技法を探し求めてきた。その一方で素朴さのあるハニワや土器など日本古来の文化に魅了され、全国を旅して作品を作ってきた。1970年に鎌倉に居を移すと「春の鎌倉 門 円覚寺」など古刹を題材としていった。そして、最後に手掛けたのは故郷・会津であり、雪が降り積もり静寂に包まれながらも懐かしくほっとさせる佇まいを描いた「白い雪が要らないところを消して 描きたいものだけを残してくれる」と雪の美しさについて斎藤は話し、90歳で他界するまでに「会津の冬」を題材とする作品は115点生み出されている。そして、今回の依頼品は北海道大学で着想を得ユーモラスでほのぼのとした「HOKKAIDO(C)」、物憂げな女の横顔と塔のシルエットに板の木目を活かした「TOWER(B)」、鎌倉での作であり手前に木を後に古刹の重厚な門を配し静かな空気感が引き立たされている「GATE KAMAKURA (F)」、赤・紺・黄のコントラストが凛とした美を引き出している「威厳」、代表作として名高く寂寥の中に暮らしの息吹を感じることのできる「会津の冬(89)大野」の5点。
能登半島の復興のために売りたいという斎藤清の版画5点の評価額は230万円。山村浩一氏は海外で評価され逆輸入の形で評価が高まったと紹介。「HOKKAIDO(C)」は45万円で農耕器具を手前に置くことで視線を主役である牛に向けたものだと紹介。「TOWER(B)」は35万円で不思議な取り合わせが特徴と紹介。「GATE KAMAKURA (F)」は50万円で雲母と呼ばれる輝きのある素材を使いシャープさを引き出している。「威厳」は30万円であやめと焼杉の夏季という組み合わせで堂々たる様を引き出している。「会津の冬(89)大野」は70万円で厚みのある雪と洗濯物の色、人物の存在が暮らしのぬくもりを引き出しているが、画廊で販売されれば100万円以上の値段も付く逸品という。購入は番組ホームページから。
今回は番組に出演する鑑定士の経歴や普段の仕事などを紹介していく。
中島誠之助氏は1938年に東京・青山で生まれ、1歳の時に両親が肺炎に罹り死別する。その後は横浜の芸妓が育ての親となったが戦後の混乱で離別し、10歳の時に茶道具商をしていた伯父の養子になった。ここで後継ぎのために骨董について勉強し、その一方で赤坂の寺に通って禅の精神を教わっていた。通っていた芝学園では生物部部長を務め、青年時代には世界一周を夢見て遠洋マグロ漁船に乗り込んだこともあった。この時寄港したシンガポールで華僑の土産物店を覗いた所「商戦」と書かれた掛け軸を見て神の啓示だと思い、商人の道を決意した。22歳で陶磁器の世界に入り、30歳で独立。1976年に南青山で古伊万里染付専門店「からくさ」を開き、世に古伊万里ブームを巻き起こした。また店の前の通りに骨董通りと命名したのも中島氏。1994年の番組放送開始当時からレギュラー出演し、ゆうもあ大賞も受賞するなど活躍し続けている。
骨董通りを命名したのも中島誠之助氏で、中島氏は「名前をつけるまでタクシーの運転手に説明しにくかったので名前を付けた」など話した。また元気の秘訣については「スクワットを毎日60回」など話した。
中島誠之助氏が肌見離さず持っているお宝は「小学校1年生の時の遠足で拾った石」で、81年間いつも持ち歩いているという。中島氏は「幼くして両親を亡くしたので心の拠り所になっている」など話した。
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鶏龍山の壺を鑑定。本人評価額は300万円だが、結果は700万円。朝鮮王朝前期に作られた俵壺で間違いないとのこと。釜の中で立てて焼くという。赤レンガ色の鶏龍山独特の土が見えているという。主に酒瓶として使われたものだという。 その後、結婚式には間に合ったという。お宝は家宝として大切にすることにしたという。
去年の放送に登場した渡邉知昭さんは当時高級クラブの女性に恋をしていた依頼人で、織田信長らの書4本の掛け軸を鑑定するも贋作ということで8千円だった。現在も女性に恋をしているといい、新たなお宝でリベンジをしたいという。贋作だった掛け軸は祖父が購入したもので、実は5本購入していたが1本が行方不明になっていた。今回はその行方不明になっていた1本が見つかったためこれを鑑定したいという。
依頼人は福島県の渡邉知昭さん。依頼品は「伊達政宗の書状」。前回出演した時の織田信長らの書状は偽物だったということでリベンジだということ。
戦国の風雲児独眼竜伊達政宗は1567年に米沢城主伊達輝宗の嫡男として生まれ、5歳の時天然痘に罹り右目を失明、眼球も大きく腫れ上がったため人目を避けるように内気な性格になった。9歳の時守役だった片倉景綱に命じ刀で右目をくり抜かせると快活になり文武両道に精進するようになったという逸話が残されている。15歳で初陣を飾ると豪胆ぶりが評価され18歳で家督を譲り受け、周囲の有力大名を次々討ち果たし23歳で東北南部114万石を制圧。豊臣秀吉が発した惣無事令に背く行為だったので激怒、上洛を命じられた政宗は禿頭に切腹の際着用の白装束姿で謁見したため潔さを気に入られ領地を召し上げられたが手厚く持てなされた。朝鮮出兵の時は3000の兵に高さのある金色の笠などを付けさせて出陣式に出席、絢爛たる装いに秀吉は喜び見物人からも喝采を浴びた。以降人目を引く洒落た身なりの人を表すだて者という言葉に「伊達」が使用されるようになったとされる。関ヶ原の戦いでは上杉家家臣直江兼続を撃破し東軍勝利の貢献、2万石の領地を与えられた。政宗は新たに居城を構えた仙台の発展に尽力、北上川の治水事業や荒れ地開墾を農民だけでなく武士にも奨励、新田を知行地として与えた。正宗が晩年情熱を傾けたのは料理、「馳走とは旬の品をさり気なく出し主人自ら調理してもてなすことである」とし毎日の献立は熟考、料理を外交手段をして用い江戸城や江戸藩邸で徳川歴代将軍を選りすぐりの逸品でもてなした。徳川家光のもてなしの際は味見から接待前自ら行い鶴の吸い物といった珍味など54種類もの料理が共された。1636年70歳で他界、家光は偲び江戸で7日間、京で3日間狩猟と演奏を禁じ喪に服した。依頼品は伊達政宗の書状。宛名は不明だが将軍にあて料理をするといった食通の政宗らしい内容となっている。
書画界のハンカチ王子こと田中大を紹介。京都と銀座に店を構え、美術品販売のみならずギャラリー運営・学術出版など幅広く手掛ける日本屈指の美術商「思文閣」の代表取締役。1964年京都市の生まれで、4人兄弟の末っ子長男。思文閣の3代目ボンとして育った。高校2年生の時にオーストラリアに語学留学し、実践英語を身につけその後通訳のアルバイトでニューヨークのオークションに参加した。24歳で思文閣に入社した。その審美眼が広く認められ、35歳で社長に就任。40歳の時になんでも鑑定団に初出演した。再来年は思文閣創業90年で、国内のみならず海外にも目を向け、世界のアートフェアにも出展するなど様々な試みを重ねている。
自分のエピソードについて田中大は「皆が偽物だと言っているのを買ったら本物で、調子に乗って横山大観の偽物を買ってしまった。」などと話した。
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宝物について田中大は「両親が着けていた腕時計で、カバンの中に入れて持っている。」などと話した。父の周二さんについて中島誠之助は「新幹線の中で周二さんにお会いしたら、世の中は反対する人間が50人なら賛成も50人いると言われ、偉い方だと思った。」などと話した。
山田啓次郎さんのお宝を紹介。明治時代、関西の住む親戚の家に滞在した際、お礼に描いてくれたもの。
山田啓次郎さんの依頼品は「横山大観の作3点」。山田啓次郎さんは「金屏風と天袋は明治時代に大観が関西に住んでる叔父の家に泊まりに来て、宿代で描いたものだと言われている。」などと話した。
明治・大正・昭和を生き抜いた近代日本画の巨匠・横山大観。圧倒的な気迫と卓越した筆で日本画の未来を切り開こうとした美の国士。明治元年、水戸藩士の家に生まれ、19歳の時、東京美術学校の創立を知り、画家になろうと決意。にわか勉強で受験すると見事合格。当時社会は急速に西洋化する中、校長の岡倉天心はあえて東洋美術の素晴らしさを解き、日本独自の芸術を発展させるよう指導。横山大観はこれに深く共鳴し、天心を師と仰いだ。東洋美術の真髄を掴むべく、大観はひたすら古典名画と対峙し、その記憶を頼りに模写。腕を磨き、卒業制作では最高点を獲得した。菱田春草らと共に、29歳の時、日本美術院を創設。空気を描く方法はないかとの天心の問いに触発され、挑んだのがハケでぼかす技法。しかし、世間からは朦朧体と揶揄され、作品は売れず。日本美術院は経営難に陥り、上野から五浦に移転。貧困の中でも黙々と絵筆を握り、独自の画境を切り開いていった。 横山大観が目指したのは写実そのものではなく、気品や静寂といった深い精神性を絵に宿すこと。作品は人々の心を掴み、名声は高まっていった。55歳で描いた大作「生々流転」は独自の水墨技法を駆使し水の一生を描いたもの。「夜桜」は61歳の時、ローマで開かれた日本美術展のために描いたもの。日本古来の美を世界に向けて歌い上げた。89年の生涯を閉じたのは昭和33年。死後、大観の脳は東京大学医学部で保存されることになった。脳の萎縮は60歳前後で驚くべき若さを保っていたという。依頼品は横山大観の作・3点。
