2024年2月25日放送 15:00 - 16:55 日本テレビ

Colorfulライフラリー 〜人生ってみんな違ってスバラシイ〜

出演者
森圭介 SHELLY 
(オープニング)
男女格差 70年でどう変化?時代で変わる女性の生き方

70年前に放送された番組では長野県の道場で結婚前の女性が集められ花嫁修業を行っていた。当時は女性は結婚すると夫の家に入り家事を完璧にこなすのが良妻とされていた。高度経済成長期には働き手が不足し、女性が働き手として注目されOLという言葉が誕生した。この頃は職場での男女格差が問題になっていた。1986年に男女雇用機会均等法が施行された。バブル期になるとプレイベートを謳歌する女性たちが登場した。その後総合職や管理職にも女性が。2021年にはジェンダー平等が流行語に選ばれた。

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ユーキャン新語・流行語大賞男女雇用機会均等法
オープニング

オープニング映像。

オープニングトーク

多様性に触れる日テレのキャンペーン「Colorful Weekend」の特別番組。変化してきた価値観から今を生きるヒントを考える。2022年の国の研究所の調査では家事分担割合が妻80.6%、夫19.4%となっている。

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国立社会保障・人口問題研究所高田紗千子
(Colorfulライフラリー 〜人生ってみんな違ってスバラシイ〜)
“親子”のつながり血縁超えて 子供たち支えた“母の言葉”

2002年、東京で実の親と暮らせない子を預かって育てる里親・坂本洋子さんは、5人の子どもを育てていた。6歳の男の子は実の親から十分な食事を与えられず保護され、里子として坂本さんの家に預けられた。男の子はときに過去の記憶に苦しんでいたという。怯える男の子に坂本さんは愛情を注いだ。2012年、再び坂本家を取材した。里子は18歳で自立を求められる。17歳になった男の子は自立を前に広己という名前を顔を出して里子としての思いを伝えることを決めた。この頃坂本家には6人の里子がいた。1つ上の歩さんは数学の先生になる夢に向けて受験勉強の真っ只中だった。広己さんは高校の演劇部の仲間に里子と打ち明けられないことに悩んでいたが、取材の中で彼は仲間に事実を打ち明けた。現在広己さんは対馬で社会人になっていた。

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坂本洋子対馬対馬市役所東京都長崎県

広己さんは奨学金で大学に行き、現在は社会福祉士として対馬で働いていた。地域の消防団の一員でもある。66歳になった坂本さんは今も里親を続けていた。広己さんの1つ上の歩さんは2年前坂本家の里親になった。地域の子どもたちの居場所を作るためNPOの知事も務め子ども食堂を運営している。

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対馬対馬市役所
“親子”のつながり血縁超えて

ある調査では、里親、里子について「全く知らない」「名前を聞いたことがある程度」と答えた人は6割以上だった。

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日本財団
「生まれた国に帰りたい…」“ルーツ”に悩んだ17歳は今

1995年、群馬・大泉町では日本に働きに来た日系ブラジル人が集まって暮らしており中村さん一家は30年前に家族6人で日本に来た。長女のパトリシアさんは日本に来て2年経っても暮らしに馴染めず、帰りたいと考えていた。パトリシアさんは中学校に1年通ったものの日本語が難しく高校進学を断念した。パトリシアさんには同じような葛藤を持つ日系ブラジル人の恋人がいた。

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大泉町(群馬)

1995年に取材したパトリシアさんを訪ねた。当時付き合っていた恋人と結婚していた。今は長女が25歳、長男が23歳になり家族で暮らしている。パトリシアさんはお菓子作りの先生をしていた。パトリシアさんのお菓子は日系ブラジル人に人気で、懐かしい味や人柄に惹かれて生徒が増えていった。ブラジルにいた頃からの趣味であるお菓子作りが日本での居場所を作る力になった。パトリシアさんは「心が100%ブラジル人ではない、ブラジルより日本の生活のほうが長い」「自分の裏表もないままで生きた方がいい」と話した。

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ブラジル大泉町(群馬)
ミックスルーツの“モヤモヤ”

藤田は「当時は私みたいな外国が半分という人があまりいなくて違和感があった」などと話した。副島は「ルーツというものを考えたことがないくらい日本人だと思っていた、小学校高学年になったときに見た目でいじめを受けルーツについて考えた」などと話した。SHELLYは「小学校で嫌な思いをしたので中学校で学区がズレたときに名字をお母さんの日本の名字にしてほしいと頼んだがダメだと言われた」「変えてたら周りに合わせるばっかりして良くなかったかもしれないので感謝している」などと話した。

“セールス特攻隊” “満員地獄”時代で変わる働き方

1968年に会社員を記録した映像で、厳しいノルマを課せられたセールスマンたちが100軒以上の家を訪問していた。達成できないと上司から叱責されていた。会社のために戦う社員を当時は企業戦士と呼んでいた。悩みのタネは満員電車でけがをする人もいた。1970年代にはモーレツ社員という言葉が生まれ、睡眠時間を削って働くのがサラリーマンの鑑とされた。その後過剰な働き方が問題視され働き方改革につながった。2010年にはイクメンが流行語になった。

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ユーキャン新語・流行語大賞
時代で変わる働き方

SHELLYはパートナーの父が企業戦士の時代の人だったと話した。藤田は夫婦で得意な方をやることになっていると話した。SHELLYは家庭の家事育児の価値を上げていかなきゃいけないと話した。

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稲葉友
KABA.ちゃん“本当の自分”に…女性としての人生 決断の理由

2000年代大ブレイクしたKABA.ちゃんはオネエタレントと呼ばれ、多くのテレビ番組に出演した。現在は性別適合手術を受けて戸籍上も女性となり、名前も永次から一華になった。森アナがインタビューした。KABA.ちゃんは27歳のときdosの男性メンバーとしてデビュー。安室奈美恵、SMAPなどの振り付けも担当した。デビューした頃は周りからセクシュアリティーを隠すように言われたと話した。2002年に恋愛対象が男性だとカミングアウトした。バラエティで見てるKABA.ちゃんが強すぎて恋愛に繋がらなかった、「俺はゲイじゃないから」と言われるのがつらくて女性として見てほしかったと話した。がんになった姉に「後悔しないように生きてね」と言われ、2016年に性別適合手術を受けて戸籍上も女性となり、名前も一華になった。女性になったことで制作の人からいじりにくいと言われ、いじらないとテレビには出れないの?と思ったと話した。

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dosSMAPピンク・レディー安室奈美恵小室哲哉

KABA.ちゃんは性別適合手術を受けて戸籍上も女性となった。現在は自身の経験を語る講演会に力を入れている。自分らしさについてKABA.ちゃんは「後悔しない生き方を選んでいること」と話した。

“自分らしい”生き方って?

藤田は自分らしく生きるのが一番いいと話した。SHELLYはあの時代にオネエタレントとして出てくれる人がいたからこそ世の中にいろんなセクシャリティがあると知れたと話した。

“強烈ツッコミ動画”で大人気 心動かす6歳の“自分らしさ”

パパへの強烈ツッコミ動画で人気のYouTuber理央奈ちゃんは2歳半のとき側わん症と診断された。手術で進行は食い止めたものの胸から下にマヒが残った。歩くことができなくなりほぼ毎日リハビリ施設に車で通っていた。YouTube登録者数は125万人を突破している。SNSで知った企業からオファーを受け、企業紹介動画も撮影した。理央奈ちゃんは足の治療費がかかるから自分で稼ぎたいと話した。

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YouTube倉敷市(岡山)側わん症岡山ロボケアセンター愛媛県
みんなが生きやすい社会に/ちょっと怖くないですか?多様性のトーク

SHELLYはリハビリの姿に勇気づけられる、障がいのある人が頑張らないいけない世の中じゃダメで障がいのある人が生きやすい世の中をどう作っていけばいいか考えて世の中を変えていくことがいい社会だと思うと話した。中西は言っちゃいけないことが多すぎて喋るときに怖いと話した。

TVer

TVerの案内。

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TVer
ちょっと怖くないですか?多様性のトーク

中西は言っちゃいけないことが多すぎて喋るときに怖いと話した。藤田は大切なことはわかってるけど会話に入りたくなくなっちゃうときがある、1つ間違えた言葉を言ったら全部のバッシングが返ってくる気がすると話した。副島は多様性とか言いすぎてかたくなってる、友達になるときもケンカする、人間関係はケンカしていいと話した。SHELLYはテレビに出てる者として私の言ったことで嫌な思いをしたら嫌だと思っていると話した。

山奥で暮らす夫婦と支える家族 “本当の幸せとは?”30年の記録

電気も電話も水道も通っていない山奥で暮らす寅夫さんと妻フサコさんを30年以上カメラが追い続けた。湧き水を使い、食材は畑の野菜が中心、寝室はバスだった。1947年に岩国市で山を購入し、子どもを授かってにぎやかなヒビを過ごしていた。1961年に家族で大阪へ。タクシー運転手として子どもを育てた。1979年に寅夫さんは山に戻ることを決断した。平成になっても電気や電話、水道が通っていない生活は変わらなかった。心配する子どもたちは夫妻を旅行に連れ出し、山を下りるよう説得した。

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Apple WatchNintendo Switch岩国市(山口)田中フサコ田中寅夫

電気も電話も水道も通っていない山奥で暮らす寅夫さんと妻フサコさんを心配する子どもたちは夫妻を旅行に連れ出し、山を下りるよう説得した。夫婦は山奥で自分らしく生きていきたいと下りることはなかった。しかしその後寅夫さんが心臓発作で倒れ高齢者施設へ、さらに前立腺がんが見つかった。入院することになり、夫婦は離れ離れになった。娘夫婦は山の麓に引っ越し、山の手入れを始めた。退院した寅夫さんは昔のように畑仕事に臨んだ。その後寅夫さんは2007年、フサコさんは2013年に亡くなった。山では今娘夫婦が畑仕事をしている。

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前立腺がん大阪府岩国市(山口)田中フサコ田中寅夫
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