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オープニング映像。
80年前、その男はあえて空気に抗い信念を貫いた。一億総特攻の道、多くの若い命が体当たりの特攻によって失われた。しかし美濃部正少佐は唯一人、真っ向から反対した。時代の流れに抗った29歳の指揮官、その信念を語り継ぐ。
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知覧特攻平和会館では戦場に散った若い特攻隊員たちの遺影が並ぶ。多くの特攻隊員が飛び立った鹿児島県。曽於市の岩川という街にも基地があった。芙蓉部隊は静岡で結成し岩川に拠点を置いた。教員だった前田さんは戦争の歴史を伝えたいと定年を迎えた夫とともに全国にいる芙蓉部隊の元隊員や遺族を探し始めた。元芙蓉部隊隊員の山本さんは航空機の整備を担当していた。芙蓉部隊は夜間攻撃を任務としていた。山林の中に兵舎を建て機体を草木で覆い滑走路には放牧していた。さわ写真館の澤さんは隊員たちによく遊んでもらっていたという。
美濃部正少佐は29歳の若さだった。死と隣り合わせの過酷な戦闘を幾度も経験した。日本軍の拠点だったサイパンが陥落し、本土への空襲が激しくなった1945年2月。作戦会議で全機特攻の方針を示された。爆弾を積み空や海から搭乗員もろとも敵の艦船に体当りする。美濃部少佐は処刑されることも覚悟の上で方針に抗い、訓練の様子を視察させ特攻編制からの除外を認めさせた。1945年5月秘密基地を求め岩川へ。
作戦会議で示された全機特攻にただ一人異を唱えた美濃部正少佐。過酷な訓練に耐えた隊員たちを万策尽きぬうちに特攻で死なせるわけにいかない、その思いが美濃部少佐を突き動かしていた。前田さんは16年前ほどから岩川で調査や研究をしている。芙蓉部隊は出撃回数は81回、出撃機は延べ786機、戦没者は105人。「遅かれ早かれ死ぬのなら潔く特攻して死にたい」と訴える隊員もいたという。
美濃部さんは戦時中の話をすることはほとんどなかったという。戦後美濃部さんは航空自衛隊の創設に加わり、自衛隊員の育成に力を尽くした。「ばかな戦争なんか、するもんじゃない」と家族に言い残していた。戦後80年二度と過ちを繰り返さないため、私達が貫くべき信念とは。
NNNドキュメント’25の次回予告。