1982年6月24日、ニューヨークで開かれた国連の軍縮特別総会で初めて被爆者が演説した。山口さんは14歳の時爆心地から1キロあまり離れた軍需工場で被爆。全身に火傷を負った山口さん。米軍が記録のために撮影した映像を紹介。奇跡的に一命をとりとめたが原爆の後遺症で入退院を繰り返した。原爆投下から10年後、山口さんは後遺症や差別に苦しむ被爆者とともに被爆者団体を結成する。晩年も施設で療養生活を送りながら核兵器の廃絶を訴えた。山口さんが亡くなって10年が経った去年秋、演説に使ったとみられる直筆の原稿が長崎市で見つかった。そこには演説のために山口さんが書き加えたあとが残っていた。原爆投下直後の惨状を訴える場面では「ゆっくり」。そして焼けただれた自分の写真を掲げる場面では何かを強調するような印が付けられていた。日本被団協の田中煕巳さんは山口さんと行動を共にしてきたという。被爆者が繰り返し要望してようやく実現した国連での演説。長年被爆者運動の先頭に立ち続けた山口さんに託した。田中さんは「世界中の人々に訴えたいと、初めての最大の機会だと思った、仙二さんだったら被爆者が言いたいことをきちっと言ってくれると」と述べた。
演説直前の山口さんの様子を知る栗原淑江さんは当時、日本被団協の事務職員として山口さんとともに米国へ渡っていた。体調がすぐれなかった山口さんは、毎日点滴を受けながら演説の準備に打ち込んでいたという。栗原さんは「あまり外部でみんなと行動することができなくて、すべて演説のために備えていたという感じだった」と述べた。米国滞在中も山口さんは他の被爆者らと議論を重ね、何度も原稿を書き直していた。完成間近の原稿にひときわ目立つ「ノーモアウォー」。山口さんが強く希望して付け加えたものだった。原爆投下は戦争が引き起こしたと考えていたため。山口さんの長女・野田朱美さんは、父・仙二さんの原稿には“若い世代を守りたい”という思いが込められていると感じている。国連での演説から約40年。原稿が見つかったことは“いまを生きる人へのメッセージ”ではないかと受け止めている。
演説直前の山口さんの様子を知る栗原淑江さんは当時、日本被団協の事務職員として山口さんとともに米国へ渡っていた。体調がすぐれなかった山口さんは、毎日点滴を受けながら演説の準備に打ち込んでいたという。栗原さんは「あまり外部でみんなと行動することができなくて、すべて演説のために備えていたという感じだった」と述べた。米国滞在中も山口さんは他の被爆者らと議論を重ね、何度も原稿を書き直していた。完成間近の原稿にひときわ目立つ「ノーモアウォー」。山口さんが強く希望して付け加えたものだった。原爆投下は戦争が引き起こしたと考えていたため。山口さんの長女・野田朱美さんは、父・仙二さんの原稿には“若い世代を守りたい”という思いが込められていると感じている。国連での演説から約40年。原稿が見つかったことは“いまを生きる人へのメッセージ”ではないかと受け止めている。