吉野家が生まれたきっかけは明治32年・1899年のことで、鎖国がなくなり洋食が流入した時代のこととなっている。創業者の松田栄吉は魚文化であり牛肉を食べる文化がなかった中、明治天皇も食された牛鍋と言うグルメを楽しむ人達の姿を見た際、急いで牛鍋の具材をご飯に乗せて食べる人の姿を見たことで牛丼の着想を得る。牛肉は高級品だったが、上質な牛バラ肉にこだわるとともに、器も有田焼にこだわった。そして、店名の吉野家は奈良・吉野の桜が思い出だったことがあり、まだ当時の吉野家は早さと安さにこだわらない作りだったという。そんな吉野家を襲ったのは関東大震災だったが、利用者からは復活してほしいという声が多く寄せられる形となり、市場が移転した築地に新たな吉野家がオープンする。息子・瑞穂が出兵する戦時中も牛丼を作り続けた松田だったが、1945年の東京大空襲で店を失ってしまう。それでも瑞穂は無事で、もともと弁護士を志していたものの、この窮地に駆けつけてくれることとなり、瑞穂が経営・松田が調理を行うスタイルとなった。瑞穂は「「極めてやろう」という気持ちが、オリジナリティを生み出す。」という言葉も掲げて年商1億円を達成したが、現代のレートであれば約18億円に上るという。すると瑞穂はうまさと早さの両立を志すために牛丼だけを提供する店を目指すとともに、回転率を上げるために具材は牛肉と玉ねぎだけとなった。そして、つゆだくは牛丼のタレを楽しみたいという声を聞き穴開きのお玉を開発したことで実現したのだといい、47個の穴があることで「四十七の瞳」と命名されるとともに誰でもむらなくつゆだくにできるようになった。今もこのおたまは使われているのだという。そして、瑞穂は年商3億円を目指し新橋で2号店を開業すると、日本酒の代わりに白ワインを合わせて肉の臭みを減らすと、1杯200円(現在の800円)となったが、客は満足する様子が見られた。これにより「早い・うまい・安い」の三拍子が揃うことに。1975年に10店舗に拡大すると、アメリカにもオープンしている。1978年には200店舗までオープンし、現在は2200店舗まで規模を拡大する形となった。