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「吉永さん」 のテレビ露出情報

スタジオに3人がけの小さなソファが登場。ゲストの内村が真ん中に座ることになったが、窮屈な様子を「東横線」と例えるなど嫌がる様子。話題は「笑っていいとも!」での共演時について。タモリと内村は楽屋が一緒で、そこで仲良くなったんだそう。打ち合わせは数分のみで、リハーサルもなく残りは雑談に充てられていたんだそう。90年1月、ハワイから生放送。付近でファイアーショーが行われており、放送に集中できなかったんだそう。内村は当時新人で、荷物運びも手伝っていたんだそう。
内村が「笑っていいとも!」に出演していた時のこと。鶴瓶の別荘にみんなで行った際、酒が進んだ2人は全裸になったそう。別荘には人間が天板を支えているような彫刻のオブジェがあり、これを全裸で再現などしていたそう。
話題は紅白歌合戦での司会について。内村は2017年、当時53歳で初司会。タモリが初めて担当したのは38歳のころ。緊張することもなかったそう。この前年に「笑っていいとも!」の放送が始まっており、「そろそろ紅白歌合戦いってもいいかな?」とクセで言ってしまったそう。鶴瓶は07年に当時56歳で初司会。この際、「紅白の司会を受けた理由は 私の母を会場に呼べたこと」など話していたんだそう。過去、京大合格発表の場に受験していないのに遊びに訪れ、その様子がNHKで報じられた。これを母に激怒されたことがあるんだそう。
話題は「毎日決まってやること」について。タモリは朝ご飯を毎日作っているそう。メニューはチャーハン、カニ玉など。内村は毎朝、梅干し・お茶を食べて目を覚ますんだそう。そのあとベランダの落ち葉を拾うんだそう。
話題は「お笑いをやろうと思ったきっかけ」について。タモリは若い頃にやりたいことがなく、流されるままに支配人や営業職などやっていたところ、30歳ごろに友人のツテで芸人としてデビュー。直後、マンガ家・赤塚不二夫に見初められ本格的に芸人になることに。「俺の人生は誰かが書いたんじゃないかと思うくらい恵まれている」など振り返った。鶴瓶は20歳で笑福亭松鶴に弟子入り。もともと落語がやりたかったわけではなかったそう。タモリの提案で新作落語を作ったことも。その作品「山名屋浦里」は後に歌舞伎化され、2人で観に行ったそう。
話題は「旅に行くならどこ?」について。タモリは旅好きだが、「笑っていいとも!」に出演していた頃は海外旅行に行けず。最近は「ブラタモリ」などでよく海外に行くそう。タモリ・鶴瓶がタモリの家に行った時のこと。自宅には映写室があり、そこで「スター・ウォーズ」を見たことを内村はよく覚えているんだそう。この際、タモリは「ターミネーター」のモノマネとして全裸になったそう。
話題は「今年の目標」について。タモリは「目標を持たないのが私の目標」と毎年言っているんだそう。内村・鶴瓶も特に目標はないんだそう。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年12月23日放送 19:30 - 20:42 NHK総合
みんなのベスト紅白カラーでよみがえる懐かしの「紅白」名曲大集合 第16〜20回
VTRを振り返り、石川さゆりはクリスマスに美空ひばりの「柔」のレコードをもらったと思い出を語った。1960年代後半は高度経済成長期で白黒テレビは普及していて、カラーテレビの普及率も伸びてきていた。背景にあるのは1964年の東京オリンピックと1969年のアポロ11号月面着陸などの国際イベント。さらに昭和のスターたちもテレビの人気を牽引した。関根勤は3兄弟で園ま[…続きを読む]

2025年12月23日放送 15:40 - 16:54 テレビ東京
よじごじDays昭和名曲さんぽ~よみがえる!懐かしの歌謡曲~
一行は「まんぷく食堂」を訪れた。

2025年12月17日放送 12:35 - 12:45 NHK総合
あのとき×紅白(あのとき×紅白)
1925年3月1日、日本初のラジオ試験放送が行われた。放送開始当初のラジオ受信契約数は3500だったが、その年の10月には10万を突破。様々な番組を通じて暮らしの中にラジオが浸透。1951年1月3日、「第1回NHK紅白歌合戦」が始めてラジオで放送された。当時のNHKディレクター・近藤積の発案で終戦直後に放送された新しい音楽番組「紅白音楽試合」をもとに企画され[…続きを読む]

2025年10月19日放送 20:56 - 22:30 テレビ朝日
有働TimesスポーツTimes
「毎日60回!」吉永小百合“若さのヒケツ”。

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