茂雄が何よりもこだわったのは魅せる野球。茂雄にはプロは観客を喜ばせ感動させるという熱い思いがあった。いつしか、ミスタープロ野球と呼ばれるようになった。巨人は黄金期に入るが、茂雄にも体力の衰えが出はじめる。人前では明るく振るまい、家に帰ると地下室でバットを振った。しかし、長嶋限界説が囁かれるようになる。昭和48年10月、茂雄は監督の川上哲治から巨人の監督になることを打診されたが、茂雄はもう1年だけバットを持たせてほしい、あと1年最後の勝負をさせてほしいと頼んだ。茂雄は今まで以上に素振りや縄跳びをしたが、先発メンバーから外された。昭和49年10月14日、茂雄は現役最後の日をむかえた。後楽園球場には5万人のフ押し寄せた。4回ウラ、茂雄は通算444号ホームランを打った。
