今年は阪神淡路大震災から30年。MBS・清水麻椰アナウンサーの取材。阪神淡路大震災の起きた午前5時46分。大阪・大阪市にあるMBS毎日放送も激しい揺れに襲われた。宿直勤務の仮眠室で飛び起きカメラにすぐ手を伸ばした入社1年目・工藤輝樹カメラマン。少ない情報から工藤カメラマンは西へ向かう。兵庫・西宮市の阪神高速道路を取材。地震直後からカメラを回し続けたMBS人事局労務部・工藤輝樹元カメラマンに話を聞いた。工藤元カメラマンは「こういう仕事を選んでこういう仕事をしているという立場であれば、目の前に展開したものは全て撮る。記録がおろそかになると取材対象にも失礼。結果として情報としては不完全、見劣りをするということがあると思う」と語った。もう一人、大阪市内の自宅からいち早く神戸へ向かった新人記者がいた。羽根俊輔記者は兵庫・西宮市のマンション倒壊現場で取材を始めた。室内には閉じ込められた人がまだいた。救助する人々をカメラで捉えていた羽根記者に「カメラ撮るヒマあったら手伝え」と強い言葉が。被災地からリポートを続けたMBS報道情報局長・羽根俊輔元記者にも話を聞いた。夕方、神戸市内の市営住宅に到着した羽根記者は、建物の中に入り取材を続けた。同じ場所に建て替えられた市営住宅に今も住んでいる女性は、20時間ぶりに助け出された。避難所で受けた1つの質問「これからの生活、設計立てましたか?」が今も忘れられないという。
個人経営の小さなお店が軒を連ね活気にあふれていた神戸市長田区の菅原商店街は、地震で大きな火災に見舞われ、アーケードの骨組みだけが辛うじて立っていた。地震から間もなく、化粧品店を再建しようとしていたキノヤ化粧品店・岸本明美さんは、避難所でお客さんから化粧品を何とかしてほしいと声をかけられ、店を再開させると決めた。化粧品店は今も営業を続けていた。いつもお客さんがいる地元で人気のお店になっていた。菅原商店街は阪神淡路大震災の象徴のようにメディアで取り上げられてきたが、岸本さんは「めっちゃ嫌だった。何が分かるのって。以前知らないくせに大変ですねって。だから報道のしかたって難しいんだろうなとは思うが、本当にかわいそうですよ、かわいそうやけど、あなたにかわいそうと思われたくない。30年来たから話せること。30年の積み重ねでこういうふうになったと思う」と語った。取材を続けながら、どうしても答えが出ないあの場面。西宮市のマンションの倒壊現場で記者が浴びせられた言葉「カメラ撮るヒマあったら手伝えって!」。広島・広島市に住む女性は、46歳のとき、あのマンションに住んでいた大切な一人息子を失った。当時、神戸大学法学部2年生だった息子は、将来は平和のために国連で働きたいと夢と希望に満ちあふれた21歳だった。女性は地震の翌日、広島から息子が暮らしていたマンションにたどりついた。息子が大学生になり1人暮らしを始めたとき、初めてこの場所を訪れた。このとき息子は一枚の手紙をくれた。手紙は、これまで何度かメディアを通じて伝えられてきた。この手紙が、さまざまな出会いを広げてくれた。女性は「当時だったら怒りが湧いたかもしれない。今となったら記録して残すことはものすごく大事なこと。記録してあるからこそ、現在をたどれる」と語った。今年も行われた1.17のつどい。初めて追悼の場を伝える生中継に臨んだ。震災の記録を次の世代、未来へとつないでいく。神戸生まれ、震災を知らない私にできること。
個人経営の小さなお店が軒を連ね活気にあふれていた神戸市長田区の菅原商店街は、地震で大きな火災に見舞われ、アーケードの骨組みだけが辛うじて立っていた。地震から間もなく、化粧品店を再建しようとしていたキノヤ化粧品店・岸本明美さんは、避難所でお客さんから化粧品を何とかしてほしいと声をかけられ、店を再開させると決めた。化粧品店は今も営業を続けていた。いつもお客さんがいる地元で人気のお店になっていた。菅原商店街は阪神淡路大震災の象徴のようにメディアで取り上げられてきたが、岸本さんは「めっちゃ嫌だった。何が分かるのって。以前知らないくせに大変ですねって。だから報道のしかたって難しいんだろうなとは思うが、本当にかわいそうですよ、かわいそうやけど、あなたにかわいそうと思われたくない。30年来たから話せること。30年の積み重ねでこういうふうになったと思う」と語った。取材を続けながら、どうしても答えが出ないあの場面。西宮市のマンションの倒壊現場で記者が浴びせられた言葉「カメラ撮るヒマあったら手伝えって!」。広島・広島市に住む女性は、46歳のとき、あのマンションに住んでいた大切な一人息子を失った。当時、神戸大学法学部2年生だった息子は、将来は平和のために国連で働きたいと夢と希望に満ちあふれた21歳だった。女性は地震の翌日、広島から息子が暮らしていたマンションにたどりついた。息子が大学生になり1人暮らしを始めたとき、初めてこの場所を訪れた。このとき息子は一枚の手紙をくれた。手紙は、これまで何度かメディアを通じて伝えられてきた。この手紙が、さまざまな出会いを広げてくれた。女性は「当時だったら怒りが湧いたかもしれない。今となったら記録して残すことはものすごく大事なこと。記録してあるからこそ、現在をたどれる」と語った。今年も行われた1.17のつどい。初めて追悼の場を伝える生中継に臨んだ。震災の記録を次の世代、未来へとつないでいく。神戸生まれ、震災を知らない私にできること。