新美の巨人たち 新美の巨人たち
向島百花園を生んだのはご隠居の佐原鞠塢。江戸時代後期の日本橋で骨董商を営んでいたという。庶民の間で茶道ブームが起きると掛け軸に茶道具を高値で売りさばき大儲け。今でいうオークションを開いたがこれが奉行所に咎められてしまう。佐原鞠塢は、向島にあた旗本の空き屋敷を購入し40代の若さで隠居を余儀なくされてしまった。詳細豊かな佐原鞠塢が考えたのが梅屋敷。梅見の客から茶代がとれると考えた。鞠塢は梅の庭を作るためにクラウドファンディングを行ったがそこで立ち上がったの文人たち。酒井抱一、谷文晁
、大田南畝、川上不白がまさに江戸の文化人オールスター。彼らに協力を仰ぎ、仲間や裕福な町人たちに寄付をつのると360本ほどの梅の木が集まった。その返礼が、文人たちの漢詩を編纂した詩集。まさに大江戸クラウドファンディング。開園当初は梅が主体の庭だったがやがて鞠塢と文人たちはクワを持って苗を植えて自分たちの趣味と好みで思い思い庭造りを行った。鞠塢の群芳には草花を植え池を堀り、自由で野趣あふれる庭をと記され、大名庭園の様式美はない。おおらかで素朴で唯一無二の百花園は大評判いなり隅田川の名所として浮世絵に描かれるほどに。御成座敷には今でもお茶会を楽しむことができるという。そのお座敷を設計したのが江戸琳派の天才絵師の酒井抱一。の歴史に詳しい服部勉さんは、百花園は園芸を媒体にした文化サロンで花は絵師にとっては画題にもなったという。