国際報道 SPOT LIGHT INTERNATIONAL
日本人の移民と現地の人との間に生まれ太平洋戦争で親を失うなどしてフィリピンに取り残されたフィリピン残留日本人の総数は3815人。本来は日本人だが、多くは無国籍の状態。すでに約1800人が無国籍のまま亡くなっている。4月末、フィリピン・マニラ。石破首相が面会したのは3人のフィリピン残留日本人。寺岡カルロスさん94歳は、この日のため自宅から片道5時間かけて面会に出席した。寺岡さんが「忘れられた日本人「」と訴えた背景には残留日本人が歩んだ苦難の歴史がある。寺岡さんは戦前、山口県から移民としてフィリピンに渡った父とフィリピン人の母との間に生まれた。当時、アメリカの統治下にあったフィリピンには多くの日本人が移り住み、現地の人たちと関係を築きながら暮らしていた。しかし、太平洋戦争の開戦によって生活は一変した。旧日本軍がフィリピンに侵攻し、寺岡さんたちは敵国の父親を持つ子どもとして敵意を向けられる対象となった。戦前に父親が病死していた寺岡さん一家、通訳として働いていた2人の兄は日本とフィリピン双方からスパイを疑われて射殺された。母親はアメリカ軍の空爆で目の前で亡くなった。アメリカ軍の捕虜となり孤児となった寺岡さん、戦後はフィリピンで激しい差別と迫害に遭った。日本国籍を取得しようとしたがそれを証明するものはなかった。生活のため、20代でフィリピン国籍を取得し、独学で木材や農業の事業を起こした。現状を変えたいと日本を訪問し政府の支援を求め続けてきた。20年余りわたり残留日本人を支援してきたNPOでは、現地で父親証明書類を発見したり、日本で親族を探すなどして、これまで323人の国籍を取得してきた。しかし、戦後80年を迎える今、手がかりを入手するのは困難になってきている。この日訪ねたのは日本国籍を取得するために親族探しをNPOに依頼していたナカマさんの家族。ナカマさんは日本国籍・親族探しを求めながら1月に亡くなった。日本政府は初めて公費で残留日本人を日本に招き、身元探しを支援する方針を打ち出した。しかし、未だに具体的な計画は示されていない。平均年齢84歳になった残留日本人たちにとっては一刻の猶予もないとNPOは来日を実現させるため政府への働きかけを続けていく。